多くの方が一度や二度、いやもっと多いかもしれませんが、

死にたい


と思ったことはあると思います。

このブログのタイトルは、ちょっと軽すぎると思いますが、お赦しください。


しかし、今本当にそう思っています。


私自身も、高校時代にありました。


意識も朦朧として、飛び降りようとふと窓に向かいました。。


その当時、家は2階建てで、2階の窓から下を見ても、低すぎてすぐに地面に到達しそうで、


とても死ねないと思った瞬間、我に帰って、事なきを得ました。



私は、本当に情けない人間です。。敢えて人と比較しても、相当なダメ人間だと思います。


中学時代、野球が好きで、高校では是非野球をやって甲子園を目指したいなあと考えていた



どこにでもいるような中学生でした。


そんなある日、部活動の帰りに、一緒に帰っていた仲間(友達とまではいかないですが、うまい言葉が見当たりませんので)がふと、

「足のサイズが小さいと背が伸びない」


とつぶやきました。



そのひとことに大変ショックを受けました。なぜかわかりますか?


甲子園で大活躍していた、桑田、清原KKコンビは清原さんが180センチ以上、そして桑田さんは小さい小さいと言われていましたが、175センチでした。


わたしは当時は160cmにも満たなかったと思いますが、この話を聞いて、


とても自分は野球は無理だ。。なんて思い込んでしまったんですね。


そんな一流選手と比較するのもどうかと思いますが。


まっ、こんな感じです、情けなさぶりの一端をお解りいただけたでしょうか?


これ以来、何か人生の不条理というものが自分の前に大きく立ちはだかり、


とてもこの先の人生に不安を感じ始めました。精神的に不安定になり、


学校の成績も不安定になりました。


そのほか、何か、このまま勉強して、高校、大学と進学し、そして社会人になるという普通の人生が、


とても画一的で、何か窮屈さを感じ始めました。何か常識で自分が取り囲まれて不自由になってしまうのではないか。なんて取り止めのないことを悩み始め、



すべてにやる気がなくなりました。夢遊病者とはこういう人のことを言うのでしょうか。



人生の不条理、人生の意味、自分への劣等感・・・・・・


このような感情に押しつぶされながら苦登校の毎日が始まりました。


結局、高校も大学も希望していたところには程遠く及ばず、


気づけば大学卒業を迎えました。



母がクリスチャンで、そして父も私が小学生の頃にクリスチャンになったため、


キリスト教に接しながら育ちました。


当時の宣教師の「キリストを信じないと地獄へ行くよ」というフレーズが気になり、


否応なしにキリスト教はどこか心の片隅にあったように感じます。


しかし、そんな複雑な思いだけではありませんでした。



小学生時代に聴いたキリストへの生涯を讃美したメサイア。あのヘンデル作曲の名曲です。


美しい旋律に小学生ながらに凄く感動しました。


また聖書にも一目置くようになりました。


聖書にはこの世の始まりからこの世の終わりまで書いてあるというのです。


この世の始まりだったらわかるけど、この世の終わりのことまで書いてあるって?


どうやって、これから先のことがわかるの?


しかも、聖書の預言は、全て成就していると聞きました。



イスラエルという国は、とうの昔に滅びたんだけれど、第二次世界大戦後に、再興しましたが、


それについてもちゃんと預言されていたと言うのです。



そしてこれから先に起こることも、聖書には書いてある。クリスチャンはそれをこれから先起こると信じている。。と言うのです。



だからといってすぐ聖書を受け入れる気にはなりませんでしたが、興味を持つようになっていきました。


ヨハネの黙示録というこれから先のことが書いてあるとされている聖書の一部を読み始めたりしました。



ま、でもよくわかりませんでした。ただ、どこかにキリスト教への信頼感が少しづつ少しづつ、醸成されていったような気がします。



話は大学卒業時に戻ります。なんか、とりあえず就職もできて、社会人生活が始まりました。




学校も出たのだら働かなければならない。。だから働きました。



でも、相変わらず悶々としたうだつの上がらない自分です。会社でも落ちこぼれで、


あいつは首をきった方がいいんじゃないか?なんて声もちらほら聞こえてきました。



社長が兎に角いい方で、温かい目で見守ってくださったおかげで、働き続けることができました。



しかし、心はボロボロのままで、とうとう限界が来たのでしょうか?


本当に生きるか死ぬかの二択しか残されていないように思えました、、。そして、気づいたら、あるキリスト教書店に足が向いていました。


どこかに、最後の拠り所としてキリスト教への信頼があったのだと思います。



そこで平野耕一さんという牧師の方が書かれた「これだけは知っておきたい」


という、聖書のローマ人への手紙という箇所をわかりやすく解説している本が目にとまり、



早速購入し、読みました。その時、キリストを信じるだけで大丈夫なんですよ。という意味あいのことが書かれていたと思うのですが、そんな幼少期よりキリスト教に馴染んでいる僕には、当たり前すぎることが、


何かふとわかったような気がしました。今まで何回も何回も聞いてきたフレーズですが、


信じるだけで救われるわけないじゃん!とどこかで考えていた自分が、溶解していくような、


生まれて初めて味わう、何か心の平安といいますか。落ち着きを感じました。




それ以来、前向きに考えられるように変わっていきました。



実は、私は、ちゃんと信じていなかったにもかかわらず、高校時代に洗礼(バプテスマ)を受けていました。本当によくわかっていなかったのが本当のところです。たしかに、キリスト教が拠り所にはなっていました。キリストが救い主であると信じていました。が、自分の人生に深く介入し、自分の人生全てをお任せできるお方であるとは信じることができていませんでした。



それがようやくわかり始めたのだと思います。


バプテスマとは、キリストを信じたことを人々に表明するひとつの儀式だと思います。


バプテスマでは、一般的に、水中に身を沈めます。もちろんほんの数秒です。



これは、「死」を表現しています。



救われるとは自分に死ぬことなのです。人は死ななければならないと聖書は言っています。



「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(新約聖書ガラテヤ2章20節)



これからは、あなたに変わって私(キリスト)があなたの中で生きるんだよとおっしゃっています。



これが救われるということです。もはやダメな自分は終わったのです。



だから、「死にたい」「自殺をしたい」


これはもう、本当に人生のチャンスなんだと思います。。



これこそ、本来の人間らしい、人間の尊厳の回復された人生の出発点なんです。



信じる。これだけで。キリストを信じる。ただこれだけなんです。 

そうすれば、こんな穏やかな海辺のような平安を手に入れ、毎日を送ることができるようになります。

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