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最近に始まったことではありませんが、


何か凶悪犯罪のニュースが報道された後に、


「こんなことは人間のやることではない」 
というような意見を耳にします。。。




これを聞いていつも私は違和感を覚えます。
「人間だからこそこういうことをやるんだ」


罪を犯すことができる能力は人間にしか備わって
いないのではないでしょうか?


熊は時に人を襲いますが、これは決して罪では
ありません。自然の営みの中の本能による行為
であって、悪気があってすることではありません。



動物には罪を犯すことは出来ません。



罪とはなんでしょうか?
これは自分で善か悪かを判断することだと思います。
何が良いことで、何が悪いことか。
これを自分で判断出来る。これは人間が人間たる所以
です。


動物は自分の行いをジャッジすることはできません。
行いは本能の赴くままに遂行されます。



しかし、人間は自分自身の理性に基づいてジャッジ
した上で行動することができる生き物です。 



人間の尊厳を守るとは、このジャッジする権利を守る
ということに他ならないと思います。一人一人が
自分でジャッジする権利を保護する。まさにこれこそ
民主主義の原点なのだと思います。


しかししかし、人間は完全でありません。人間のジャッジ
は間違うことがあります。これこそ罪だと思います。


だから人は行き詰まります。そして社会も行き詰まります。
決して民主主義は万能ではない所以はここにあります。
人間の尊厳が守られたからといってそれが幸せに直結する
ことにはなりません。



だから時に、この人間の尊厳を奪ったほうがういいのではないか?
という考えが登場しうるわけです。例えば封建主義、
そして共産主義です。



しかし残念がら人間による統治はどこまで行ってもやはり不完全です。
封建主義は過去の遺物となりました。そして共産主義はどうでしょうか?



だから神が必要になってきます。
そしてキリスト教はイエス・キリストを通して
神の助け、オリエンテーションそして憐れみを
受けることができると言っています。
イエスキリストを通すとは、、
キリストに自分の一切を任せることです。 


キリスト教の正当化をするつもりはありません。
というか、なっていないと思います。


しかし、この人間の失敗を補いうる何かこそ
真実なんだと思います。本当の神なのかもしれません。


もしイスラム教や仏教、また科学にその力があるのであれば、
それを選ぶべきです。