
最近日本では、自由というものにこだわりが無くなってきたように感じます。
自由へのこだわりよりも安定した生活へのこだわりのほうが強いのではないのでしょうか?
自由と束縛は、相反するものです。自由であって束縛されているというのは二律背反というやつです。
ありえないはずです。
戦後の高度経済成長時代に、終身雇用の下でのサラリーマンライフは、安定していた半面、自由がありませんでした。
90年代以降、契約社員という新しい雇用形態が浸透しはじめました。今までの正社員よりも給与水準は劣るものの、会社からの束縛度合は軽減され、自由度は増しました。
しかし、この契約社員もしくは派遣社員という形態が普及しはじめると、今度は経済的安定のために正社員を求める人が増えました。
自由というのは恐ろしいものです。自由のあるところには責任が伴います。
そのすべての結果への責任は全て自分に降りかかってきます。
結果、怖くてなにも出来なくなる。自由であるにもかかわらず。。。
アメリカは自由の国と言われています。自由を愛する国と言われています。
こんな恐ろしい自由を愛するなんて、アメリカ人は余程強いということでしょうか?
決してアメリカ人が強いからではありません。日本人と同じ人間です。
これは、アメリカ人の多くが持つイエス・キリストへの信仰に原因があります。
イエス・キリストを信じるということはどういうことでしょうか?
イエス。キリストに自分のすべてを任せること。自分の人生を明け渡すことに他なりません。
謂わば、イエス・キリストに束縛されるということになります。キリストの奴隷だということです。
「奴隷」という言葉はあまり好感の持てる言葉ではないと思います。
奴隷ということばから連想できるものといえば、白人による黒人奴隷でしょう。
黒人は白人によって人間扱いされず、人権はありませんでした。
ここで少し考えたいのは、この原因はいったいなんだったのかということです。
奴隷という制度的な問題なのでしょうか?
私は、どちらかというと、制度ではなく、奴隷の主人の問題ではなかったのかと思います。
身勝手で自己中心的であったことで、奴隷たちはひどい仕打ちを受けたのではないかと思わされるわけです。
もし、奴隷の主人が物凄い人格者であったならば、今では想像も出来ないような「違った奴隷制度」があったかもしれません。
しかし、不完全な人間が構築した奴隷制度は惨憺たる結果に終わりました。
問題はその主人なのではないか。
それでは、イエス・キリストが奴隷オーナーだったらどうなのでしょうか?
イエス・キリストは、私は良い牧者です。と言っています。
牧者とは、良い羊飼いという意味です。
良い羊飼いは、羊をあらゆる危険から守り、必要な食糧などを適宜分け与えます。
キリストは良い羊飼いのように、救われた人たちをそれぞれの使命が全うされるまで、あらゆる危険から守り、そして養うと約束しておられるのです。
ここに安定があります。
そして、あらゆることを益としてくださる。とも約束しておられます。
日常生活の中では、自分の思う通りに行かないことは多々あります。
その原因がほかの人にある場合、その人を憎しみ始めるでしょう。
憎しみがもたらす実は、さまざまな闘争を引き起こし、最終的には殺人へと繋がっていきます。
しかし、すべてのことを益となると信じることが出来れば、憎しみは消え去ります。憎しみから自由になるのです
。
人間は実は、憎しみの奴隷になっているのです。それだけではありません。
お金、名誉欲、また恋人、大事な友人そして親への過度な依存も、ある種の奴隷です。
人間は実は、自由ではありません。必ず何かに頼っています。何かの奴隷になっているのです。
奴隷にならざる負えない存在なのではないでしょうか?
ですから、奴隷であること自体悪いことではなく当然のことなのではないでしょうか?
大事なのは何に依存するか?でしょう。
この依存する対象が多くのアメリカ人にとって、イエス・キリストであったということなのです。
アメリカ人にとっての自由とは、イエスキリストに束縛されることによって得られる「安定」によって、憎しみ、お金、国家、様々な人間関係のしがらみなどからの自由なのです。