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 愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そしてすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。(コリント人への手紙第一 13章4~7節)

 私には100%愛を実行することは出来ません。またここに書かれているような愛を完璧に実践出来ている人をいまだかつて見たことはありません。このような世界は現実には存在しません。あり得ません。机上の空論とはまさにこのことです。世の中は欺瞞に満ちており争いが絶えません。不条理が横行しています。これが現実です。
 聖書が求める世界というのは実に非現実的で人間世界とは全く別次元の世界なのです。であるが故に聖書は神が書かれたのではないかと個人的には思っています。しかしその一方で聖書は、

・・・もしからし種ほどの信仰があったら、この山に「ここからあそこに移れ」と言えば移るのです。どんなことでもあなたがたにできないことはありません。・・・(マタイの福音書17章20節)

 Why God??? Why Bible???ですよ。ほんの少しの信仰さえあれば出来ないことはない。と言っています。mustard-seed-1327239-640x376

これがからし種。からしの種です。そのまんまですけど。こんな小さな種からからしは出来ます。。。確かにキリストを信じてから変わったという人はたくさんいます。

やくざから牧師になった人、暴走族から牧師になった人(わたし2人知っています。)、泥棒から牧師になった人、

・・・わたし(キリスト)から離れてはあなたは何一つ出来ない・・・。(ヨハネによる福音書15章5節)

 これは先程のマタイの言葉とは180度違った角度から同じことを言っています。聖書にはパウロのように一瞬のうちに劇的に変わった人もいれば、アブラハムのように信じてからも多くの失敗をして段々成長していった人もいろいろなパターンがありますが、少なくとも言えることは信じると人生のベクトルの向きが変わっていくことは間違いではないようです。私の場合もそうです。内面に変化が現れ、どこか安らぎを感じるようになり今まで気づかなかった自然の美しさに心奪われたりそんな感じです。住む世界は同じなんだけど、見方が変わる感じです。

 よく、外国に行くと今まで気づかなかった日本の良さに気付いたり、悪いところも気づいたりという話を聞きます。また私文章を書いていますが、自分自身ではなかなか誤字脱字に気付かないんです。他の人に校正してもらって初めて分かることがよくあります。

 同じようにこの欺瞞に満ちた人間社会に浸っていると、本当の社会の姿が分からないのではないでしょうか?
この汚い世界から一歩外に出て客観的に見ないと違いが分からない。コーヒーの違いが分かるのと同じです。。
ちょっとこじつけすぎるかな?

 キリストを信じるとは、決して天国に行けるだけではなくて、社会をよりよく理解し、判断するという意味もあるのです。決して意味のないことではありません。現実社会にも有益であって功利的なことです。資本主義競争社会にいる私達は、生きることは競争だみたいな発想に陥ってしまいます。アベノミクスの第三の矢は産業競争力会議で決められました。まさに如何に勝ち残っていくかという視点で考えられている訳です。競争は経済にとって有益なんでしょうか?ある程度は有益だと思います。競争がないと堕落するということはわかります。しかし、タクシー業界などを見ても、価格競争に陥り働く人の賃金は目減りしてしまう。当たり前です。同じことをやっているのですから、どうしても競争になる。誰かは敗者になる訳です。

 だいたい人間1人1人顔が違うように個性は違うのに関わらず、同じことをやるというのは不合理ではないでしょうか?競争史観だと、これに意外と気づかない。

 生きる世界を変えて見ると、思わぬ可能性に気付いていくはずです。