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 福島の原発事故による放射能汚染は本当に大丈夫なんでしょうか。飯山一郎さんによると北米でも放射能の数値が上がってきているらしいんです。原発事故が発生したから大きくクローズアップされた原発問題を整理したいと思います。

  • 原発賛成派のポイント
原子力には事故のリスクがあるが、原子力発電がなくなれば私達は別のリスクに直面する。それはエネルギー安全保障、不安定な電気料金、二酸化炭素排出量増による気候変動だ。(国際環境技術研究所所長 山本隆三氏)


<使用済み核燃料処分について>長期間にわたって安定している地層の中に高レベル放射性廃棄物を定置・埋設することによって、人間と接近可能な生物圏から「隔離」することが地層処分の本質なのだ。最終的には地下水などに放射性物質が溶け込んで自然界に放出されることがあっても、当該放出される量が、自然界に存在する放射線量との相対的な比較などの基準で十分安全だと評価される程度に抑えられるよう、廃棄物のパッケージングの工夫や地層の選定を行うこととする、という考え方である。・・・1億年は動いていない地層は日本には多くあり、火山や活断層も避けることは段階的調査を行う中で可能となる(国際環境技術研究所前所長 澤昭裕氏)

  • 原発反対派のポイント
    • 日本は地震大国、大地震が起きたら原発の安全性が確保できない
    • 家も職場も学校も生活環境の全てを失ってしまう可能性がある
    • 事故の際は電力会社の事故処理・除染費用、損害賠償金の支払い負担が大きい
    • 使用済み核燃料の廃棄・保管問題が解決していない
    • 火力発電をフル稼働させれば電力の供給は十分
    • 原発の寿命が来た時の廃炉費用が莫大になる
 如何ですか?どちらもそれぞれ理解は出来ます。それぞれそれなりに筋は通っているから議論しても互いに譲らない。だから平行線になってしまうことになります。じゃあどうするかというと、民主主義社会では多数決によって決め、全体主義、独裁体制社会では指導者が決定することになります。それぞれ筋は通っているのにどちらかは諦めなければならないという不都合な現実に直面することになります。

 人にはそれぞれ意見がありますが、これはそれぞれの信念によるものであるということではないでしょうか?そして信念の上で議論をしているということです。

 相撲取りは同じ土俵に上がって初めて勝負出来、決着がつきます。信念とは土俵と同じようなものです。だから同じ信念を持つ時初めて、議論は成り立つことになります。原発反対派、賛成派という互いに違う土俵の上に立っているから決着がつかないのではないでしょうか?

 こういうことってクリスチャンである私にはすごいよくわかることなんですよ。コリント人への手紙第一2章14節に、
クリスチャンでない人は聖霊様が教えて下さる神さまの思いを理解する事も、受け入れることも出来ません。。
クリスチャンとは、イエスキリストを信じる人ですが、この文章をまとめると、信じないとわからないよ!ということだと思います。なんか聖書って都合良すぎないか?って感じてしまいますが、実は世の中も同じなんですね。物事ってまず信じることから始まる。そして何を信じるかによっても大きく変わることになります。

 論理は道具です。銃は狩猟などには実に便利ですが、使う人によっては人殺しの道具になってします。論理も道具です。使う人の信念によって良くもなり、悪くもなります。。論理は絶対ではありません。それよりも何を信じるかが重要です。

私の恩師の著作です。


引用:国際環境経済研究所 http://ieei.or.jp/
日本の愉快な仲間たち https://japanandworld.net/archives/1465