生活に神を

世界は辺境から変わる!

日本の片隅に生きる名もなきクリスチャンの徒然

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2019年07月

「打倒芸術!サイエンステクノロジー万歳!」

とアレクサンドル・ロトチェンコが言ったか言わなかったか知らないけど、


彼のことはこう表現されている。。



だって、現代アートって、反サイエンステクノロジー的なんじゃないの?



こんな写真家もいるもんなんですね。



彼こそ現代アートの先駆者らしい。


今、現代アートは中国が熱いらしいけど、社会主義と現代アートに恩恵があるらしい。



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冷やし甘酒が、


冷やしはまだけー


に聞こえてしょうがない


冷やしはまだ来ないん?っていう意味で、どこかの方言でありそ!!
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ler-a-biblia-orar





成功・・・・・悩ましい言葉ですね。みんなこのためにあくせく苦労しています。


みんな成功出来れば苦労しません。成功とは一体何なのか?


自分の思い通りに行く、さらには、自分の思う以上の好結果が生まれる。


ことでしょうか。


基準は「自分」です。自分自身の考え方によって成功の形は人それぞれ変わるのだと思います。


まずは自分の好きなことから始めようとよく言われます。「好きこそものの上手なれ」


これはやはり大事だと思います。好きなことは自分の才能である可能性は高いと思います。




何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6節7節)


と聖書にあります。早速祈ってみました。自分の願いを率直に祈ってみました。なぜなら神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。とあります。

これは、自分の願いがもし神の御心、御意思と同じであれば、平安が与えられ、もし違っていれば、


自分の思いを、神の御意思へと平安のうちに変えてくださる。と理解しているからです。


すると、次の聖書のみ言葉が浮かんできました。


神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2:13)



自分の今の願いというのは、自分の感情です。思いです。



それが、その思いが、神の御意思と同じであれば、


きっと、志が与えられるという思いになりました。



志とは、「その思いによって何をして、それで自分を、家族を、そして社会をどうしていきたいのか。」でしょうか。


クリスチャンとして志を言ってみると、「神様に対して、そして人に対して何をしていくのか。どのような徳があるのか、利益になるのか」と言えると思います。



もし、自分の願いが御心なら、この志が「与えられる」はずなのだと思いました。



神は、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、、ということは神が私に「与えられる」はずなんです。


この「与えられる」がポイントなんです。決定的なポイントです。



自分で志を考えるのではない




神が教えてくださり、そして、それをなんと、



神が成し遂げてくださるんです。


だって、


あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。



なのですから。。。自分では何も無理して頑張る必要ないということです。



全部おぜん立てされます。



ここが、キリスト教の、キリスト「教」でなはない所以なんですね。「教え」ではない。

教えであれば、その教えに忠実に従うのは、自分になります。自分でやらなければなりません。


でも、キリスト教は教えではありません。力です。命です。キリストの力です。

教えにはそんな力はありません。


このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。(コロサイ1章29節)


使徒パウロはこう告白しています。キリストが働いてくださっていると。


もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです (ガラテヤ2:20)



キリストを信じれば救われます。信じるとは、自分で生きるのを辞めて、代わりにキリストに生きて頂くこと。です。


不完全な自分で生きれば、それはもう大変ですが、完全なキリストが生きてくだされば、もうそれは幸せです。



これがキリスト教の最大の醍醐味ですね。

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「コシーニャ」で大儲け

あるブラジル人夫婦がアメリカで、ブラジル風コロッケ「コシーニャ」ビジネスで成功!!





ほぐし鶏肉をマッシュポテトで包み油で焼くだけです。 これなんで日本で流行んないですかね。ブラジル人たくさんいるのに。
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ler-a-biblia-orar

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(新約聖書:エペソ書6章11節12節)

ちょっと、過激なテーマに致しました。。

聖書は悪霊について、



主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、を悪(悪霊)だとしています。



ローマ・カトリック教会は、キリスト教2000年の歴史の中で、



事実上、政治権力を保持した時代がありました。ローマ帝国、神聖ローマ帝国


の時代に教皇が国家の頂点に君臨しました。


これは、事実上、宗教団体というよりも政治団体であったと言わざる負えません。


当時のヨーロッパでは、教皇は絶対的であり、教皇が帰依するキリスト教も絶対的な存在でした。


そこに住む住民は、有無を言わさずにキリスト教徒に改宗させられました。



これは、北朝鮮ともあまり変わりがありません。



国家には義務が伴います。残念ながら、古今東西を問わずです。


徴兵制があります。徴兵制がなくても、国民には納税の義務があります。



義務とは人間の自由意志に関わらず、絶対的に履行しなければならないこと。


この事実の前に現代市民は思考停止せざる負えません。


しかし、これは自由意志を持つ人間の権利(人権)に対する挑戦ではないかと思えてしまいます。


国家は義務によって成り立っています。人間の思いを無視する強制力というある意味「暴力」が国家には付与されています。



キリスト教の経典である聖書は、悪の特徴としてしばしば「暴力」を挙げています。




あなたの唇の言葉を守ります。暴力の道を避けて (詩編17編4節)

神に逆らう者よ、神に従う人の住みかを狙うな。その憩いの場で暴力を振るうな。 (箴言24章15節)



国家とは本質的には暴力というシステムを内包する装置です。国家とは暴力装置なのです。



しかし、人間社会は残念ながら、この暴力装置がなければ成り立ちません。



もし無税になったら、どうなるでしょうか。たちまちカオスに陥ってしまう。


やはり人間は不完全(罪人)である所以でしょう。



キリスト教徒も、そんな不完全な人間に変わりはありません。


だからローマ・カトリックのような失敗もありうる。


プロテスタントだって、同じです。同じような失敗に陥る危険性を孕んでいます。牧師の言うことが絶対化されたり。。ロシア正教もギリシャ正教だって同じです。

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