ぺかどおる

「あなたが右に行くにも、あなたの耳はうしろから、『これか道だ。これに歩め』ということばを聞く。」(イザヤ書30章21節) 「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイの福音書6章33節) 私は海洋散骨事業、そして通訳ガイドを営んでおります。毎日の生活はサラリーマンのように保証されておりません。しかし私は聖書を信じています。私の人生は上の御言葉の通り、神様がきめ細かく導かれ、必要なものも備えて頂き、充実した幸せな人生であることを確信しています。このブログではそんな私の歩みも綴らせて頂きたいと思います。宜しくお願い致します。

2016年11月


alegria





よくキリスト教福音派と言われる人は中絶やLGBTを認めないと言われます。


一応福音派だと思ってる私も、認められないと思ってます。


さて、話しはここからです。アメリカやブラジルなど福音派が社会である程度の割合を占めるところでは、この問題が政治的に争点化されます。

ここで、改めて、なぜ私は中絶やLGBTに反対なのか考えました。

やはり聖書にその根拠を私なりに見いだしていることに気付きます。聖書によって中絶はやはり殺人である。LGBTは堕落の結果ではないかと理解しています。

私は聖書の作者であるキリストを知っていることでこのような理解にたどり着いているわけです。

ですから、キリストを知らないクリスチャンではない方には、この考え方に違和感を感じるのはごく自然なことです。当然なことでしょう。決して責められないと思います。

だから政治的に争点化することはおかしいのではないでしょうか??



もし、国民全員が福音派なのであればまだしも、争点化して政治問題化させるのは、クリスチャンでない方にもこの価値観を押し付けることであって意味がないと思います。


福音派の中にも中絶をしたりLGBTの方がおられると思いますが、これらの方には叱責すべきなのでしょうか。これについても十把一絡げに叱責しろとかするなどとは安直に判断できない。キリストとな絆の度合いもそれぞれ。
ケースバイケースでしょう。


私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。(ローマ7章9節) 

<中絶やLGBTに反対することによって神の栄光、義を表せるのか?>

福音派の中には、積極的に中絶やLGBTに反対を唱えることは、神の義や栄光を表し、人々への宣教につながるのではないかと 考えている方々もおられると思います。


このローマ人への手紙7章9節で明らかにされているように、律法だけをクローズアップすると、結局のところそこには絶望だけが残ることになると思います。とても聖書が求める律法を実行出来ない自分に気づくからです。

そして、この絶望感に浸ることによって人々はキリストにすがることになる。。

だいたいこのように考えるのだと思います。


しかし、イエス・キリストは人々に対してそのようなアプローチはしなかったと思います。裁くメッセージではなく赦しのメッセージを訴えかけられました。


ですから、私は、中絶やLGBTへ反対ではあるものの、それを振りかざし、政治闘争の道具として扱うことには疑問を抱きます。



日本では、そもそもキリスト教のバックグランドが薄いため、中絶やLGBTに対して比較的寛容なのではないかと思います。これが問題になること自体に疑問を感じる方が多いのではないでしょうか?当然だと思います。


しかし、欧米でいつも問題となるこの問題の背景を理解しておく必要はあると思います。



今後もこの問題は取り上げていきたいと思います。








 

エスタブリッシュメントreligion


establishment   


今年のアメリカ大統領選で、幾度となく登場してきた、「支配階級」を表すこの言葉は、



ここ数年、庶民の目の敵にされてきました。



富は人口の1%のエスタブリッシュメントに集中していると揶揄され、



アメリカをはじめ全世界でデモが繰り広げられました。



2016年



6月のEU離脱の是非を問うイギリス国民投票での離脱派勝利、


そして11月8日のアメリカ大統領選挙でのD.J.トランプ氏の勝利は、



様々な社会矛盾の原因とされた既存の社会体制への不満が原因とされました。


彼らアメリカの庶民が真に望んでいるのは「公約なんかどうでもいい。とにかく、このロクでもない世の中をぶっ壊してくれ」というただ一点だけ。だからこそ、トランプ氏は下馬評を覆して圧勝できた。「トランプ大統領」を渇望したアメリカ国民の“単細胞パワー“週刊現代”より




人間の頭の中で完結する論理性に基づく科学の発達は、ビジネス、学力、スポーツ、容姿、芸術など、人間に分



かりやすい、目にみえやすい能力が支配する社会システムを作り上げてきました。



しかし、



合理性だけでは理解しえない人間の心など、さまざまな分野で大きな矛盾を生み出し、


それが一気に噴出し始めてきた。。


そんな一年であったような気がします。



実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する
 


近代合理主義の綻びが現れてきたいま、

佐藤優氏が「反知性主義」とするこのような思考に基づいて、偏狭なナショナリズム、民族主義が勢いを


増してくる可能性があります。


ここ100年余り、近代合理主義を巧みに社会に取り入れてきた日本。これから一体どうすればいいのでしょうか?



いま、宗教も再びクローズアップされてきています。



中国では、イスラム教、仏教、キリスト教などの伝統的な宗教が見直され、それぞれ信者が増えています。



モンゴルでも仏教徒が増えているようです。



中東はイスラム教による宗教性の強い社会でしたが、キリスト教徒がじわじわ増えてきています。



アフリカや中南米では、キリスト教とりわけ福音派と言われる聖書を純粋に神の言葉として受け入れる


人々が非常に増えています。




そして、日本と同じように近代合理主義の価値観を持つヨーロッパでは、中東から難民が押し寄せ、アイデンティ



ティを見直す動きが始まり、キリスト教が見直されてきています。



宗教とは、英語でRELIGIONと訳されます。


RELIGIONとは、RELATIONすなわち、繋がりを意味する言葉です。


ここで言う繋がりとは勿論、神との繋がりを指します。



しかし、日本では宗教という言葉は少し違ったニュアンスで理解されているような気がします。



どちらかというと、繋がりよりも、真理を探究する哲学的なニュアンスで理解されていないでしょうか?



それもそのはず、日本人の精神世界に大きな影響を与えている仏教での「禅」は、悟り(真理)


を探究するための手段であるからです。



ここに神はありません。


真理の探究とは、欧米では哲学の命題です。宗教ではありません。




哲学とは紛れもなく学問であって、合理的に組み立てられていくものですから、宗教の表すRELIGIONとは本質的に違うカテゴリーのはずですが、



日本では仏教を宗教として捉えてしまっているため、「繋がり」という本来の意味が失われてしまっているのです。


その顕著な例として、オウム真理教があります。オウム真理教には高学歴のエリートが数多く入信しました。



オウム真理教も修行による解脱を訴えることから、宗教というよりも哲学です。


しかし、日本人には宗教と哲学の違いが分からないので、哲学であるオウム真理教を宗教として絶対化してしまったのではないでしょうか?


幸福の科学もそうです。科学といっているわけですから、これも宗教とは違うはずですが、宗教団体として活動しています。因みに幸福の科学創始者の大川隆法氏も東大卒のエリートです。



日本ではエリートですら、宗教を正しく認識出来ていないのです。




名実ともにポスト・モダンに突入しようとしている今、



RELIGIONを改めて見直し、RELIGIONを軸に世界を見つめていきませんか?



RELIGION的な感覚の理解がこれから益々クローズアップされるのではないでしょうか?


RELIGION的な物の見方によって社会を見ていく重要性は増していくのではないでしょうか?








 

エホバの証人lgf01a201401100200


前回の投稿で、エホバの証人は、信じるだけではだめで、イエス・キリストを見習って行動していくことによって救われる。という点を指摘致しました。

この発想は、他の宗教にも見られるものです。



禅宗はどうでしょうか?



悟りの境地に達するためには修行が必要になります。

例えば、


天台宗で行われる千日回峰行という悟りに至るひとつの方法ですが、とにかく凄まじい。。。

千日回峰行は7年間かけて行なわれます。1年目から3年目までは、1日に30キロの行程を毎年100日間行じます。定められた礼拝の場所は260箇所以上もあります。4年目と5年目は、同じく30キロをそれぞれ200日。ここまでの700日を満じて、9日間の断食・断水・不眠・不臥の“堂入り”に入り、不動真言を唱えつづけます。
 6年目は、これまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60キロの行程を100日。7年目は200日を巡ります。前半の100日間は“京都大廻り”と呼ばれ、比叡山山中の他、赤山禅院から京都市内を巡礼し、全行程は84キロにもおよびます。最後の100日間は、もとどおり比叡山山中30キロをめぐり満行となるものです。(天台宗ホームページより抜粋)


天台宗のホームページによると、


例えば座禅でも念仏でも護摩供を修することでも、巡礼でも、写経でも、もっと言えば茶道、華道でも、また絵画、彫刻でも方法はさまざまでいいのですが、そこに真実を探し求める心(道心)があれば、そのままそれが悟りに至る道です。日常の生活にもそれは言えることです。


正直ちょっとわかりにくいです。。ですが、、恐らく、まごころを込めて真理を探究しようという思いで日常生活を送っていくことこそ悟りに至る道であるということであると思います。


私は仏教、取り分け禅宗は宗教というよりも、哲学ではないかなと考えます。真理の探究とは、まさに哲学的命題だからです。


イスラム教はどうでしょうか?



戒律の実践が求められます。実践しないと堕落してしまって、とてもとてもアラーには受け入れてもらえない。というわけです。

イスラム教について以前投稿しましたのでこちらをご覧ください。


以上、エホバの証人、禅宗、イスラム教には救いにとって、人間側の努力が必要とされています。


救われるためには努力が必要という考え方は、実に全うだと思うんです。素晴らしいものを獲得したいのであれば、人の何倍もの努力をしなさい。。とは日本人も当然のように受け入れるのではないでしょうか?



例えば、壮絶な努力の先に、金メダルが獲得できるわけです。



何の努力もしないでも金メダルは獲得できるなんて、誰が信じますか?



だから、エホバの証人の考え方は、決しておかしくなく、全うであると考えられます。



キリスト教の伝統として多くのクリスチャンに受け入れられている三位一体という考え方があります。


神には3つの人格(父なる神、イエス・キリスト、聖霊)があって、それぞれ本質的に同格である。。



ということですが、わかったようでわからないまま2000年が経過しました。未だかつて誰も論理的に説明できた人はいないと言われています。



エホバの証人は、この三位一体説を否定します。



当然といえば当然なんです。


だって2000年もたってもなお、説明できないことをなんで受け入れるんですか??


エホバの皆さんは、神は父なる神一人であって、イエス・キリストは神の子であって、神ではない。聖霊は父なる神の力の表れである。。


と、お考えです。


これはわかりやすいです。



だから、エホバのほうがよっぽど、良識的で正しいと本当にそう思います。。



しかし、、


わたしは三位一体を受け入れ、救いはキリストを信じることのみによって達成されると信じています。


決して理解していません。信じているのです。



なぜ、信じられるのでしょうか?



救われたからです。


さっそく、おかしな話になっていますね。


信じたから、救われたんではないのか?とツッコミが入りますよね。。


でも、救われたから信じることが出来たんです。。


信じるだけで救われるなんて、これ100%人間側に都合がいい話ですよね。


あって人間に過ち、不完全さがあるのなら、人間側で責任とれよという話ですよ・・・。

でも神が人間の変わりに責任を取ってくださったという話ですから。キリストが十字架に掛かってくださって罰を受けてくださったという話です。


こんなキリストを信じればオッケーという上手すぎる話しなんです。


とても良識的ではないし、非常識なんだけど、とても素晴らしい話ではないでしょうか?


だから神はGODなんです。。そう、GOODから来ていると言われています。神はRIGHTかどうかは人間にはわからないけど、、GOODなんです。



本当に、はちゃめちゃなんですよ。



兎に角、神と人間は住む世界が違う。異次元の存在なんです。


異次元といえば、アインシュタインの相対性理論だって、当時の常識ではとても受け入れられなかった。。



でも、この理論から量子力学が生まれ、100年以上たって、現代生活を支える重要な理論となって活かされているわけです。


常識に囚われてはいけないんです。


神様の知恵と知識と富は、なんと偉大なことでしょう。神様の取り決めと方法とを理解することなど、とうていできません。


すべてのものは、ただ神様から出ているからです。すべてのものは、神様に生かされており、神様の栄光のために存在しているのです。ローマ人への手紙11章

神の世界は、そう簡単に人間の言葉で説明できるものであってはならない。。


と信じています。


キリストの世界とは、壮大でエキサイティングだと信じています。











 


エホバの証人bible-428947_640


エホバの証人の方が訪問されました。


以前にも来たことがあったようで、その際は母が応対したようで、


うちがクリスチャンであることをご存知でした。


わたしは、


聖書を受け取ってくれませんか?


と切り出しました。



すると、


わたしたちと同じ聖書ですよね。。


とお答えになりました。わたしは、



いや、違うんじゃないですか?

と言いました。エホバの方は新世界訳という聖書をお使いですが、これは一般的にキリスト教会では使っていないからです。



すると、、エホバの方は、、


キリストは御子ですよね。


と突然おっしゃいましたので、わたしは、


キリストは、救い主です。


と伝えました。そうしたら、


そうですか。わかりました。失礼します。


とおっしゃって、お帰りになりました。。


ちょっと、後味が悪い感じで、わたしも唐突に言い過ぎた感があって反省しました。


お気をお悪くしていたらごめんなさい。





クリスチャンは、イエス様のことをキリストと言います。キリストとは「救い主」という意味です。キリストって苗字ではないんですね。。


ここで、エホバの証人の方々についてちょっと調べてみました。

エホバの証人のホームページ

かいつまんで申し上げますと、


エホバの証人も、イエス様のことを救い主と信じているんですが、、信じるだけではだめで、イエス様のように生きていくときに救われると考えておられるようです。。

エホバの証人における救いについてはこちらをご覧ください。

神はわたしのことを許してくださるのか

どうすれば永遠に生きられますか


イエス様のように生きる。。っていいますけど、、これとてもとても人間にはできるようなものではないんです。



聖書を読めばすぐにわかります。。



でも、確かにエホバの証人が言っている通り、イエス様のようにならなければ天国へは行くことが出来ないんです。


これって、どういうことか。。


例えば、家の中に汚れているところがあったら、掃除しますよね。。天国でも同じです。汚いものがあったら捨てられるんです。。


たとえば、、放射能が蔓延していたらどうでしょうか??とてもそこには住めませんから一生懸命放射能を除染しようとしますね。


だから、人間は死ぬしかないんですね。。捨てられるしかない。。絶望的な状態なんです。



こんな絶望的な状態ということをイエス様もとてもよくわかっておられます。


だから、、だから、、


イエス様は自分が身代わりになって死んでくださった。。



これで、人間は救われたんです。。だからイエス様は救い主なんです。キリストなんです。。


人間はこのことを信じれば、受け入れれば救われることになりました!!!!!!!


そしてキリストは復活されました。そして信じる者を微に入り細に入り導き助けてくださいます。だからキリストにすべてをお任せすればいい!!!!!!!!!!!



ってことです。と私は理解しております。



でも、エホバの証人はキリストのように生きていきましょう。。と、行いもないと救われないと。頑張らないと救われないとおっしゃっています。



頑張る。

私たち日本人がとても大切にしている言葉ですね。


素晴らしい人になるためには、頑張らなくてはならない。


如何でしょうか?当然ではないでしょうか?わかりやすい。


この考え方は、禅宗に似てませんか?悟りを得るためには修行しなければならない。頑張らなくてはいけません。


イスラム教にも似ています。イスラム教にも救い主はいませんから、


アラーの教えを忠実に守るために戒律という形で義務化させ、それを行うことが求められています。頑張らなくてはいけません。


このような発想は決して宗教だけではありません。我々の日常生活に溢れています。


規制緩和


特権をなくし、自由競争出来るようにならないと、人間活動は停滞し堕落する。切磋琢磨することによってよりよい社会が実現する。頑張らなくてはいけません。

エホバの証人から新自由主義まで、発想は実に似通っているんですよね。


要は、、エホバの証人の考え方は、キリストが身代わりとなって死んでくださり、しかも甦ってくださったのに、努力も必要。。


常識的であって人間的


だと思うんです。だから人間が生み出したものではないのかな?




それに比して、信じるだけで救われるなんていうのは、信じがたいわけですよ。。絶対に信じられないわけですよ。普通に考えれば。。


だから、信じるだけで救われるなんていうのは、人間が生み出したものではなく、神様が生み出した価値観


だと思うんですよね。だから、キリスト教って面白いと思うんですよね。。信じられないような教えにも拘わらず、信じる者は救われる。。なんて。。へたなお笑い番組より、よっぽどおもろいwww。。



じゃ、、なんで信じられるようなものでは決してないのに信じられたのかって??




それは、救われたからですね。。


バカにしとんかっ!!!!!


と言われても仕方ないですが。。本当にそうとしか言えません。。



聖書のローマ人への手紙11章にこんなフレーズがあります。

神様の知恵と知識と富は、なんと偉大なことでしょう。神様の取り決めと方法とを理解することなど、とうていできません。


すべてのものは、ただ神様から出ているからです。すべてのものは、神様に生かされており、神様の栄光のために存在しているのです。

これ、ちょっと、図に書いてみます。



BlogPaint





クリスチャンライフって受け身なんです。。いいでしょう。めちゃ楽ですよ。。


このご時世、もっとも忌み嫌われる姿勢かもしれません。。



言われたことだけを忠実にこなしていればなんとかなった高度成長時代はとっくに終わり、仕事は自分で生み出さなければならない時代。もうそんなことは10年以上前から言われてます。。


でも、人間ってそもそも、受け身のほうが幸せなんですよね。。そうでしょ??


なんでも自分で生み出すことが出来るこの時代はなんて素晴らしいのだろう!!っていう声よりも


今の時代は大変だ高度成長時代はよかったという声が圧倒的に多いんですから。


そんな高度成長時代は、日本人の驚異的な努力によって達成されてきたことは、ある部分間違っていないでしょう。何もかもなくなった戦後という時代の恩恵もあったことも事実だからです。



ここ数百年科学の凄まじい発展によって、、人間は、科学的、論理的なことが常識的とされてきました。

人々は目に得るもの以外には価値を見出せなくなっていきました。


目に見える武力によって国を守ろうとし、欧米列強に対抗する道を進んだものの、その道は敗戦という挫折で終焉したかに見えましたが、次に目に見える富を貪欲に追い求めて、もたらされたのが高度成長でした。


そしてそれもつかの間の宴だったかのうように今は閉塞感に満ちています。


目に見えないものへの感覚が失われ、目に見えるものにしか信頼できなくなって数百年。


目に見えない神は忘れられ、頼れるのは自分しかいなくなり、自分自身の頑張りに頼らざるをえませんでした。


科学的、論理的なことが正しいという発想に疑問を持ちます。



いま、こんな本が売れているそうです。こういう生き方に多くの人が引き付けられているのも、


現実世界に漂う虚無感の裏返しかもしれません。




































フィンランドキリスト教の神を信じる人が3分の1に。4年前に比べ6%増加


キリスト教の神を信じる人が33%に。。

フィンランド福音ルーテル教会研究所が4年ごとに発表しているクリスチャンについての世論調査が発表されました。


キリスト教の神を信じていると答えた人は33%に達し、前回4年前の27%から6%増えたことがわかりました。


当研究所のKimmo Ketolaディレクターは、


最近増えているフィンランド社会の価値についての議論の結果ではないでしょうか。


としています。 



そして、フィンランド人は死後の世界についての考え方に一貫性が見られないという特徴があるとのことです。



約70%のフィンランド人は死後の世界については誰にもわからないと考えているものの、キリストの死者からの復活についての見解を持っていない人はわずか10%だったこともわかっています。 

ヨーロッパではここ数100年、キリスト教自由主義神学派(リベラル派)が席巻し、人々は人間の知性こそ絶対であると考える風潮が圧倒的でした。知性が絶対化される中で、人々はキリスト教からも次第に離れていきました。敢えて宗教は何かと問われれば、キリスト教と答える程度の人々が多数を占めるに至りました。多くの日本人が仏教や神道に持つ感覚に近いと思います。


しかし、最近のヨーロッパのあらゆる階層で広がる危機的状況の中で、ヨーロッパの価値観について改めて見直され始め、キリスト教への関心が高まってきています。


人間の知性とキリスト教的価値観のジレンマにもがき苦しむ現代ヨーロッパ人の姿が浮き彫りになっていると言えるでしょう。


参照&画像
EVANGELICAL FOCUS
http://evangelicalfocus.com/europe/2081/One_in_three_Finns_believe_in_the_Christian_God


 

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