エホバの証人の方が訪問されました。
以前にも来たことがあったようで、その際は母が応対したようで、
うちがクリスチャンであることをご存知でした。
わたしは、
聖書を受け取ってくれませんか?
と切り出しました。
すると、
わたしたちと同じ聖書ですよね。。
とお答えになりました。わたしは、
いや、違うんじゃないですか?
と言いました。エホバの方は新世界訳という聖書をお使いですが、これは一般的にキリスト教会では使っていないからです。
すると、、エホバの方は、、
キリストは御子ですよね。
と突然おっしゃいましたので、わたしは、
キリストは、救い主です。
と伝えました。そうしたら、
そうですか。わかりました。失礼します。
とおっしゃって、お帰りになりました。。
ちょっと、後味が悪い感じで、わたしも唐突に言い過ぎた感があって反省しました。
お気をお悪くしていたらごめんなさい。
クリスチャンは、イエス様のことをキリストと言います。キリストとは「救い主」という意味です。キリストって苗字ではないんですね。。
ここで、エホバの証人の方々についてちょっと調べてみました。
エホバの証人のホームページ
かいつまんで申し上げますと、
エホバの証人も、イエス様のことを救い主と信じているんですが、、信じるだけではだめで、イエス様のように生きていくときに救われると考えておられるようです。。
エホバの証人における救いについてはこちらをご覧ください。
神はわたしのことを許してくださるのか
どうすれば永遠に生きられますかイエス様のように生きる。。っていいますけど、、これとてもとても人間にはできるようなものではないんです。
聖書を読めばすぐにわかります。。
でも、確かにエホバの証人が言っている通り、イエス様のようにならなければ天国へは行くことが出来ないんです。
これって、どういうことか。。
例えば、家の中に汚れているところがあったら、掃除しますよね。。天国でも同じです。汚いものがあったら捨てられるんです。。
たとえば、、放射能が蔓延していたらどうでしょうか??とてもそこには住めませんから一生懸命放射能を除染しようとしますね。
だから、人間は死ぬしかないんですね。。捨てられるしかない。。絶望的な状態なんです。
こんな絶望的な状態ということをイエス様もとてもよくわかっておられます。
だから、、だから、、
イエス様は自分が身代わりになって死んでくださった。。
これで、人間は救われたんです。。だからイエス様は救い主なんです。キリストなんです。。
人間はこのことを信じれば、受け入れれば救われることになりました!!!!!!!
そしてキリストは復活されました。そして信じる者を微に入り細に入り導き助けてくださいます。だからキリストにすべてをお任せすればいい!!!!!!!!!!!
ってことです。と私は理解しております。
でも、エホバの証人はキリストのように生きていきましょう。。と、行いもないと救われないと。頑張らないと救われないとおっしゃっています。
頑張る。
私たち日本人がとても大切にしている言葉ですね。
素晴らしい人になるためには、頑張らなくてはならない。
如何でしょうか?当然ではないでしょうか?わかりやすい。
この考え方は、禅宗に似てませんか?悟りを得るためには修行しなければならない。頑張らなくてはいけません。
イスラム教にも似ています。イスラム教にも救い主はいませんから、
アラーの教えを忠実に守るために戒律という形で義務化させ、それを行うことが求められています。頑張らなくてはいけません。
このような発想は決して宗教だけではありません。我々の日常生活に溢れています。
規制緩和
特権をなくし、自由競争出来るようにならないと、人間活動は停滞し堕落する。切磋琢磨することによってよりよい社会が実現する。頑張らなくてはいけません。
エホバの証人から新自由主義まで、発想は実に似通っているんですよね。
要は、、エホバの証人の考え方は、キリストが身代わりとなって死んでくださり、しかも甦ってくださったのに、努力も必要。。
常識的であって人間的だと思うんです。だから人間が生み出したものではないのかな?
それに比して、信じるだけで救われるなんていうのは、信じがたいわけですよ。。絶対に信じられないわけですよ。普通に考えれば。。
だから、信じるだけで救われるなんていうのは、人間が生み出したものではなく、神様が生み出した価値観
だと思うんですよね。だから、キリスト教って面白いと思うんですよね。。信じられないような教えにも拘わらず、信じる者は救われる。。なんて。。へたなお笑い番組より、よっぽどおもろいwww。。
じゃ、、なんで信じられるようなものでは決してないのに信じられたのかって??
それは、救われたからですね。。
バカにしとんかっ!!!!!
と言われても仕方ないですが。。本当にそうとしか言えません。。
聖書のローマ人への手紙11章にこんなフレーズがあります。
神様の知恵と知識と富は、なんと偉大なことでしょう。神様の取り決めと方法とを理解することなど、とうていできません。
すべてのものは、ただ神様から出ているからです。すべてのものは、神様に生かされており、神様の栄光のために存在しているのです。
これ、ちょっと、図に書いてみます。
クリスチャンライフって受け身なんです。。いいでしょう。めちゃ楽ですよ。。
このご時世、もっとも忌み嫌われる姿勢かもしれません。。
言われたことだけを忠実にこなしていればなんとかなった高度成長時代はとっくに終わり、仕事は自分で生み出さなければならない時代。もうそんなことは10年以上前から言われてます。。
でも、人間ってそもそも、受け身のほうが幸せなんですよね。。そうでしょ??
なんでも自分で生み出すことが出来るこの時代はなんて素晴らしいのだろう!!っていう声よりも
今の時代は大変だ高度成長時代はよかったという声が圧倒的に多いんですから。
そんな高度成長時代は、日本人の驚異的な努力によって達成されてきたことは、ある部分間違っていないでしょう。何もかもなくなった戦後という時代の恩恵もあったことも事実だからです。
ここ数百年科学の凄まじい発展によって、、人間は、科学的、論理的なことが常識的とされてきました。
人々は目に得るもの以外には価値を見出せなくなっていきました。
目に見える武力によって国を守ろうとし、欧米列強に対抗する道を進んだものの、その道は敗戦という挫折で終焉したかに見えましたが、次に目に見える富を貪欲に追い求めて、もたらされたのが高度成長でした。
そしてそれもつかの間の宴だったかのうように今は閉塞感に満ちています。
目に見えないものへの感覚が失われ、目に見えるものにしか信頼できなくなって数百年。
目に見えない神は忘れられ、頼れるのは自分しかいなくなり、自分自身の頑張りに頼らざるをえませんでした。
科学的、論理的なことが正しいという発想に疑問を持ちます。
いま、こんな本が売れているそうです。こういう生き方に多くの人が引き付けられているのも、
現実世界に漂う虚無感の裏返しかもしれません。