生活に神を

世界は辺境から変わる!

日本の片隅に生きる名もなきクリスチャンの徒然

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2016年08月

人生は自分との闘いだともいいます。

しかし、

残念ながら、寝る前に決めたことを朝起きたら、まあいいやと妥協してしまう自分がいます。

他の人が犯してしまった過ちを自分は絶対しないと思っても、気づいたらしてしまっている自分がいます。


自分にほとほと嫌気がさした時にこんな曲があると幸せです。

もう、そろそろ自分に頼るのはやめにしようと思います。




Há um lugar(場所がある)
 by Heroisa Rosa

Há um lugar de descanso em Ti
Há um lugar de refrigério em Ti
Há um lugar onde a verdade reina
Esse lugar é no Senhor
あなたに安らぐ場所がある。
あなたに慰められる場所がある。
真実が支配する場所がある。
それは主にある。

Há um lugar onde as pessoas não me influenciam
Há um lugar onde eu ouço teu Espírito
Há um lugar de vitória em meio à guerra
Esse lugar é no Senhor
人に影響されない場所がある。
あなたの霊を聞く場所がある。
戦いの真っただ中で勝利する場所がある。
それは主にある。
 

Esse lugar é no Senhor
Esse lugar é no Senhor
Esse lugar é no Senhor
Esse lugar é no Senhor
それは主にある。
それは主にある。
それは主にある。
それは主にある。 

Há um lugar onde a inconstância não me domina
Há um lugar onde minha fé é fortalecida
Há um lugar onde a paz é quem governa
Esse lugar é no Senhor
移ろいやすい気持ちに惑わされない場所がある。
信仰が強められる場所がある。
平安が支配する場所がある。

Há um lugar onde os sonhos não se abortam
Há um lugar onde o temor não me enrijece
Há um lugar que quando se perde é que se ganha
Esse lugar é no Senhor
夢が砕かれない場所がある。
恐れに支配されない場所がある。
失った時に獲得する場所がある。
それは主にある。

Jesus
Tu és tudo o que eu preciso, Jesus!
Eu te preciso
イエス・キリスト
わたしの必要としているすべてはあなたにあります。イエスさま
あなたが必要です。

 

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maria-de-guadalupe

アルゼンチン人修道士で宣教師として18年間中東に滞在しているマリア・デ・グアダルーペさんは、2011年よりシリアで活動しています。


アルゼンチンに帰国することも出来ましたが、シリアのアレッポにとどまることを決意しました。アレッポは政府軍や反体制派、そしてヌスラ戦線による度重なる抗争で激しく荒廃したシリアの中核都市です。


彼女は今、各地でシリアの本当の現状を伝える活動を展開し、南米のチリでは現地のクリスチャンが既に殉教覚悟で生活しながら互いに助け合っている現状を報告しました。


彼女によると、ロシアのシリア侵攻後、ISは後退し、幾つかの都市も奪還出来ているものの、ISは自身の活動範囲が狭まるにつれて、矛先をクリスチャンに向け始めているとのことです。そして、この現状を国際的な主要メディアは伝えておらず、クリスチャンが迫害されていることが隠されていると付け加えています。

彼女は、欧米などのクリスチャンには本当の姿についての情報発信をして欲しいとし、中東やシリアのクリスチャンは、全世界のクリスチャンの祈りを信じ、支えられますとアピールしています。


翻訳:Gospel Prime
https://noticias.gospelprime.com.br/dispostos-cabecas-cortadas-testemunhar-siria/


追伸:現状、彼女の発言の信憑性についてはわかりませんが、今後の展開を見守っていきたいと思います。











 
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alegria


最近日本では、自由というものにこだわりが無くなってきたように感じます。


自由へのこだわりよりも安定した生活へのこだわりのほうが強いのではないのでしょうか?


自由と束縛は、相反するものです。自由であって束縛されているというのは二律背反というやつです。


ありえないはずです。



戦後の高度経済成長時代に、終身雇用の下でのサラリーマンライフは、安定していた半面、自由がありませんでした。



90年代以降、契約社員という新しい雇用形態が浸透しはじめました。今までの正社員よりも給与水準は劣るものの、会社からの束縛度合は軽減され、自由度は増しました。



しかし、この契約社員もしくは派遣社員という形態が普及しはじめると、今度は経済的安定のために正社員を求める人が増えました。


自由というのは恐ろしいものです。自由のあるところには責任が伴います。



そのすべての結果への責任は全て自分に降りかかってきます。



結果、怖くてなにも出来なくなる。自由であるにもかかわらず。。。




アメリカは自由の国と言われています。自由を愛する国と言われています。



こんな恐ろしい自由を愛するなんて、アメリカ人は余程強いということでしょうか?




決してアメリカ人が強いからではありません。日本人と同じ人間です。



これは、アメリカ人の多くが持つイエス・キリストへの信仰に原因があります。



イエス・キリストを信じるということはどういうことでしょうか?



イエス。キリストに自分のすべてを任せること。自分の人生を明け渡すことに他なりません。



謂わば、イエス・キリストに束縛されるということになります。キリストの奴隷だということです。



「奴隷」という言葉はあまり好感の持てる言葉ではないと思います。


奴隷ということばから連想できるものといえば、白人による黒人奴隷でしょう。


黒人は白人によって人間扱いされず、人権はありませんでした。


ここで少し考えたいのは、この原因はいったいなんだったのかということです。



奴隷という制度的な問題なのでしょうか?



私は、どちらかというと、制度ではなく、奴隷の主人の問題ではなかったのかと思います。


身勝手で自己中心的であったことで、奴隷たちはひどい仕打ちを受けたのではないかと思わされるわけです。



もし、奴隷の主人が物凄い人格者であったならば、今では想像も出来ないような「違った奴隷制度」があったかもしれません。





しかし、不完全な人間が構築した奴隷制度は惨憺たる結果に終わりました。



問題はその主人なのではないか。



それでは、イエス・キリストが奴隷オーナーだったらどうなのでしょうか?



イエス・キリストは、私は良い牧者です。と言っています。


牧者とは、良い羊飼いという意味です。


良い羊飼いは、羊をあらゆる危険から守り、必要な食糧などを適宜分け与えます。


キリストは良い羊飼いのように、救われた人たちをそれぞれの使命が全うされるまで、あらゆる危険から守り、そして養うと約束しておられるのです。


ここに安定があります。


そして、あらゆることを益としてくださる。とも約束しておられます。



日常生活の中では、自分の思う通りに行かないことは多々あります。



その原因がほかの人にある場合、その人を憎しみ始めるでしょう。



憎しみがもたらす実は、さまざまな闘争を引き起こし、最終的には殺人へと繋がっていきます。




しかし、すべてのことを益となると信じることが出来れば、憎しみは消え去ります。憎しみから自由になるのです





人間は実は、憎しみの奴隷になっているのです。それだけではありません。



お金、名誉欲、また恋人、大事な友人そして親への過度な依存も、ある種の奴隷です。



人間は実は、自由ではありません。必ず何かに頼っています。何かの奴隷になっているのです。



奴隷にならざる負えない存在なのではないでしょうか?



ですから、奴隷であること自体悪いことではなく当然のことなのではないでしょうか?


大事なのは何に依存するか?でしょう。




この依存する対象が多くのアメリカ人にとって、イエス・キリストであったということなのです。




アメリカ人にとっての自由とは、イエスキリストに束縛されることによって得られる「安定」によって、憎しみ、お金、国家、様々な人間関係のしがらみなどからの自由なのです。










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