ぺかどおる(もと簡潔!ラテン新聞)

地球の裏側にあるブラジルから見た世界は一体どうなのか。ブラジルニュースサイトGOSPEL PRIMEの協力により翻訳記事を提供出来ることになったことがキッカケでブログ始めました。 私はポルトガル語を勉強するクリスチャンですので、ブラジルとキリスト教を通して国際政治、経済、社会を見ていきます。そして合わせて展開するポルトガル語サイトを通してわかった海外アフィリエイトのやり方もお知らせしていきます。

2016年07月

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前回、神は今も生きておられるのかと題しましたが、かなり乱暴な文章であったことをお詫びします。




まず、神は生きておられる根拠として、 

 宇宙とその秩序、あらゆる生物とその構成要素は計画に基づいており、設計による結果であることに気付くでしょう。昆虫の羽などに見られる複雑な構造、膨大な量の水を吸い上げ、最上の枝にまでそれを運ぶ木々の機構、諸惑星の配列、大気中のガスの割合、それら全ては類稀な完璧さの例です。
無限に多様なこの世界のあらゆる詳細において、人は創造主を見出すことが出来ます。(The religion of Islam)


としました。


これは、神が今も生きておられる根拠としては、不十分ですね。


この説明からですと、勿論今も生きている可能性はありますが、 この世界を創造したあとに死んだ可能性も排除できないからです。



でも、キリスト教、そしてイスラム教では今も生きていると信じているわけです。




その根拠は何でしょうか?


イスラム教では、

神の存在は、そもそも「何処に」と答えられるようなものではない。時空を超越し姿形を有さないにもかかわらず、神は人間とコミュニケーションを行う人格神である。

と信じられています。コミュニケーションを取る神である根拠は、クルアーン(コーラン)の存在になります。


アッラーはその御心を人間に示し、生きる道を教えるようなクルアーンの存在こそ、神が今も生きてコミュニケー



ションを取るお方である根拠です。




キリスト教でクルアーンに当たるのが、聖書です。


やはり、聖書を通して人間に語り、聖書に書かれている信仰によって、そして信仰からの祈りによって、



神さまが生きて働いておられることを知ることが出来るとしています。


プロテスタントの生みの親、マルチン・ルターは「聖書はイエス・キリストそのものである。」

と言いました。




聖書が言う信仰とは、イエス・キリストへの信仰です。


信仰とは、人生のすべてにおいて、キリストに自分をお任せすること。



ということです。人生のハンドルをイエス・キリストに握ってもらうことということでしょうか?


そして、人生の様々な場面で沸き起こる様々な感情、思いを祈りによってキリストに打ち明け、時には慰めを得、時には具体的な決断のきっかけとなるような働きかけ(導きとクリスチャンの間では言っています。)を得ながら
人生を歩んでいくことに他なりません。




ちなみに私もキリスト教徒ですから、



実際、聖書を読み、祈ることによって神さまが生きておられることを体験できています。これは実に主観的なことですので、言葉ではこれ以上説明が難しいです。



今日は、この辺で、、。チャオ!!







 

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前回第4回で、神が生きているという意識が現代日本人がイスラム教に対して抱く違和感の原因ではないかと結論付けました。



神が今も生きて人間とコミュニケーションをとることも出来る。



いかがですか?




信じられませんか?



これは、イスラム教だけではありません。ユダヤ教そしてキリスト教も信じていることです。





イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒を足すとだいたい35億人もの人が神は今も生きておられると考えているのです。




しかし、これらの信者の中でもこの意識には差があります。神様が今も生きておられるという意識がかなり希薄な方々もおられますので、実際35億人が神様を意識しているとは思えません。キリスト教で言えば、主流派もしくはリベラル派と呼ばれる人々はこの意識は薄いと思います。




またヒンズー教や仏教、神道の方々がこのような神意識があるのかは定かではありません。




どうして、イスラム教やユダヤ教、キリスト教を信じる人々は神が生きておられることがわかるのでしょうか?





イスラム教から見ていきます。



宇宙とその秩序、あらゆる生物とその構成要素は計画に基づいており、設計による結果であることに気付くでしょう。昆虫の羽などに見られる複雑な構造、膨大な量の水を吸い上げ、最上の枝にまでそれを運ぶ木々の機構、諸惑星の配列、大気中のガスの割合、それら全ては類稀な完璧さの例です。
無限に多様なこの世界のあらゆる詳細において、人は創造主を見出すことが出来ます。(The religion of Islam)


いかがでしょうか?



これは理解できるのではないでしょうか?


勿論、この考えは現時点では科学的に証明されているわけではありません。あくまでも推論です。



しかし、決してぶっとんではいませんね。。理解可能な内容ではないでしょうか?




キリスト教でも、神の存在についてはこれと同様の説明を行うことはよくあります。




この世界を創造した神様はおられる。ここまではイスラム教もキリスト教、ユダヤ教はまったく同じです。



この神様をイスラム教では「アッラー」、キリスト教では「父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊からなる神」と理解しています。



それでは、イスラム教ではなぜ「アッラー」を神とするのでしょうか?


アッラーが神であることを人々に告げたと言われているムハンマド(マホメット)についての説明を見てみましょう。



文盲であったムハンマドが、コーランのような崇高な書物を作成できるとは考えられない。

ムハンマドの敵から、コーランの朗誦を止めれば、メッカの王権並びに欲しいものは全て与えるとの申し出があったが、ムハンマドは断っている。

コーランの中でムハンマド自身が譴責されている。


以上を持って、コーランはムハンマドが書いたものではなく、アッラーご自身はムハンマドに告げられたと説明しています。


かなり論理的な説明がなされています。まだまだこれだけではつこみどころ満載なのですが、、他にもその根拠とされていることについては、こちらをご覧ください。


今日はこのあたりにしておきます。次回これ以外の根拠について書きます。。













 






進藤達也牧師と作家の佐藤優さんは、お互いほぼ180度違うともいえる人生を歩んできたが、結局キリスト教徒となりました。


やくざの世界に足を踏み入れ、薬物にも手を出し、ほぼ人生積んだと思われるような状況で、聖書に出会い、救われました。


救われるまでの人生は、自分勝手に歩んできたといいます、そして暗い独居房のなかで聖書を読み、神さまの愛に触れ、悔い改めることが出来たといいます。


自分の思うがままに生きてたどり着いたのは、薬物にもおぼれ、法に裁かれた絶望的な状況。



自分の力の限界にたどり着き、法律の高い壁にはばまれ、行きついた先は独居房でした。




一方の佐藤優さんは、埼玉県内立浦和高校出身のエリート。神を否定するため、無神論を学ぶために同志社大学神学部に入学。


しかし、過去2000年にもわたって蓄積されたキリスト教神学の遺産の前に、所詮、近代主義の枠を出ていないフォイエルバッハの無神論はあっという間に砕け散ってしまった。私はキリスト教の洗礼を受けた。


といいます。そして佐藤さんは神学について、


組織神学というのを勉強したんですよ。組織神学というのは、かつての護教学なんです。で、その護教学の中には、論争学と弁証学というのがありましてね。


論争学というのは、「キリスト教の中で自分たちが正しいんだ」という理屈です。それに対して弁証学というのは、「他宗教との関係において自分たちが正しいんだ」ということです。 


神学っていうのはいい加減な学問で、結論が先に決まっているんですね。「どんな形だって自分たちが正しいんだ」と。あとはどういう風に理屈を組み立てるか、という訓練で、このことは、役人になったら役に立つのですけどね(笑)。


 無神論をはるかに凌駕するキリスト教神学であれ、実に独善的でいいかげんなものだとしています。


「神学では論理的整合性が低い側が勝利する」ということ。

そして、「神学論争は積み重ねられない」という。



結局キリスト教もこの世界も、、論理では説明できるものではない大きな壁にぶち当たり、論理的思考力に秀でた佐藤さんにとっても、これは挫折ではなかったのかと考えられます。



進藤牧師の前に立ちはだかった法律、そして佐藤さんの前に立ちはだかった論理。


法律や論理の上に成り立っている現代社会。


今を生きる人間はこの壁の中で生きていかなくてはなりません。


しかし、これらに翻弄されてきたこの二人の人物には、さらに大きな世界を感じ、受け入れることが出来ました。


律法、そして論理は、さらに大きな世界を垣間見ることが出来るツールなのかもしれません。



 

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キリスト教徒から見るイスラム教シリーズは、あっという間に今日で第4回を迎えます。





ほんとにあっという間でした。



あっという間に感じるくらい、中身が濃い取り組みだと感じています。



イスラム教について勉強するつもりだったのですが、結果的にキリスト教についての理解につながっている感じがしています。




これについてはまた、ゆっくり投稿したいと思っております。




さてさて、




第3回まででわかったことをまとめたいと思います。





一言で申しますと、 




以外に日本人の常識に近いということ。そして、キリスト教はハチャメチャであるということです。





キリスト教については、どういう形容の仕方がふさわしいのか見当もつきません。



ふしぎ。。これもわかるような気がします。




キリスト教の神は、ちょっと人間を甘やかせすぎちゃうんか??人間にあまりにも都合よすぎるちゃうん?



なぜこう思うかは、過去の投稿をご覧ください。

【キリスト教徒から見るイスラム教】出来るところからわかりやすくまとめて行きます!
【キリスト教徒から見るイスラム教】第2回 自分のケツは自分で拭かなければならないのか?
【キリスト教徒から見るイスラム教】第3回 戒律は何のためにあるのか?




甘い話には気をつけろ!!といいますから、キリスト教は気をつけたほうがいいかもしれません。



でも、こんなことも言われます。



出る杭は打たれる、でも出すぎる杭は打たれない。



甘い話には気をつけろですけど、甘すぎる話はどうなんでしょうね。。




今回改めてわかったことですけど、キリスト教って間違いなくこの世のものではないですね。。



こんなこと、人間が考え付くわけがありませんよ。




ちょっとIQが高ければ、考えられるとか、そういう次元ではないですね。




宇宙人がもしいたとしたら、宇宙人が考えたんかもしれませんけど、それだったらそれで会いたいですよね。。




こんなこと考えられる宇宙人やったら、めっちゃええ人ですよ。。めっちゃよすぎる人です。。(笑)


今回精一杯、キリスト教とイスラム教を公平中立に見ていこうとしてます。

まあ、私はキリスト教徒ですから、どうしても贔屓目に見てしまっているのかもしれませんから、話半分で読み流してくださってもいいですけどね。。。



さあ、そして、イスラム教はといえば、ぶっとんではいません。



常識的です。だから、普通の日本人にも受け入れられてもいい気もしたんですけど、過激派の影響もあろうかと思いますが、評判は決して高くないですよね。


でも、過激派の問題がなくても、どうでしょうか?ちょっと異質なものだと感じる方がおられるのではないでしょうか?




それは、日本人にはちょっと過剰に思える戒律なのではないでしょうか?



一日に5回もメッカの方角を向いて祈るだとか、



女性が身に着けるヒジャブとよばれる頭に巻く布だったり、保守的なムスリムで見られる、目だけしか出さない服装であったり、なのではないでしょうか?



まずは礼拝について考えたいと思います。


イスラム教徒はアラーという神を信じています。彼らの人生の本分は、神への信仰と服従です。

アラーという神が今も生きて存在しておられるという信仰があるのです。ここがまず日本人には理解出来ないことが原因だと思います。


しかし、人間は日常生活に追われ、ついつい神様のことを忘れてしまいますよね。。


だから、このことを思い出すために礼拝を捧げているのです。




そして服装ですが、


イスラームは、犯罪の危険性から社会を守ることを目指します。もしも犯罪が厳罰によって裁かれなければ社会が深刻な危険に晒されることは周知の事実です。

アッラーは社会の秩序にも関心を持っています。コーランには

それから女の信仰者にも言っておやり、慎み深く目を下げて、陰部は大事に守っておき、外部に出ている部分はしかたがないが、そのほかの美しいところは人に見せぬよう。胸には蔽いをかぶせるよう。(二四章三一節)


とあります。これが女性の服装についての考え方のベースになっていると言われています。


実際、男性が女性を見るときに覚える情欲によって姦淫を犯すことを防ぐ目的があります。理に適っていると思いますね。




日本人には奇異に映るかもしれない礼拝や戒律は、絶対的なアッラーが生きていると信じている。神が生きているという意識に起因しているのです。





ではなぜ、イスラム教徒やキリスト教徒は神が今も生きていることを信じられるのでしょうか?これについてはまた後日。。


引用:イスラム世界がよくわかるQ&A100
http://www.aa.tufs.ac.jp/~masato/awr_94.html











 



イスラム教の戒律の意味について調べてみたいと思います。


イスラームは、人の私的生活のみに焦点を当ててはいるのではなく、

一つの完璧な人生の規範なのであり、人間存在の全分野を網羅しているのです。

またイスラームは個人や社会、物質や道徳、経済や政治、法や文化、国内・国外の諸事など、人生におけるあらゆる側面における指針を提供します。 


とあります。

個人的生活規範にとどまらず、社会の在り方の規範、さらには政治、法律、国の在り方にまでその教えは及んでいるとしています。

そして、


イスラームは、犯罪の危険性から社会を守ることを目指します。もしも犯罪が厳罰によって裁かれなければ社会が深刻な危険に晒されることは周知の事実です。

とします。


社会の秩序維持のためには厳罰が必要である。厳罰があるということは、その基準としてのきまり、すなわち法律であったり戒律が必要になってきます。


このあたりは日本人であれば、すんなり理解できるのではないでしょうか?日本人の一般的感覚にも合致していると言えます。



一方、キリスト教ではどうでしょうか?


 「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。」(ローマ7:7)。


戒律、すなわち律法の役割は、罪があることを自覚させるためのものであるとしています。



いかがですか?驚きではないでしょうか?



律法を守れとは言っていないのです。



律法を守るために頑張ってみたらいい。



でも、守れないだろう?ダメ人間であることを自覚しろ!!


ということです。



キリスト教での律法は、診察だけするお医者さんと同じです。



どうでしょうか?診察だけしてもらっても、治療してもらわなければ意味がないです。。



律法は診察に過ぎないというのです。それでは、治療は何なのでしょうか?




イエス・キリストです。



律法によって人間は罪人であるとの診断結果がでました。罪びとへの有効な治療はないと言われました。



もはや死ぬしかない。と。


でも、神様はあきらめませんでした。



それで自分の子供であるイエス・キリストが同じ人間となって死ぬことになりました。



そして、イエス・キリストを甦らせました。




イエス・キリストは弱い人間を助けるために甦ったのです。




イエス・キリストを信じることによって、ダメな人間でも律法を守れるようになるということです。





これで、人間の治療は終わりました。




イスラム教の場合は、律法が治療にあたるようです。



これは日本の司法と同じですね。法律や罰則は犯罪抑止のためにあるわけですから。





今日はこの辺にしておきます。



皆さんはイスラム教、キリスト教どちらがお気に召しますでしょうか?



参照:The Islam Religion.com

http://www.islamreligion.com/jp/articles/643/






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