2016年7月29日
とても、とても暑い日が続いています。
第4回で、
何よりも救われた人と良き信頼関係を構築されたいとお考えの神様は、そのためにはすべてのことを用いて、たとえそれ(救われた人の行いや考え)が間違いであったとしてもそれを活かして祝福し、神様への信頼関係を築いてくださるのです。
ということについて、創世記を通してお分かち致しました。
救われた人、クリスチャンの行いや考えが間違っていたとしても、罰するどころか、祝福や憐みの源として下さる。
こんなこと信じられますか?しかし、これが聖書が語っている神さま、イエス・キリストのお人柄です。
本当にこれは鳥肌が立つほどの凄い驚きです。キリストの人間への思いは夏の暑さどころではありません。めちゃくちゃ熱い!!
今、キリスト教徒から見るイスラム教というシリーズでイスラム教について学んだことを
投稿しております。
まだ道半ばですが、次第に明らかになっていることは、
イスラム教もキリスト教も、この世界は唯一の創造主なる神さまによって創造され、神は今も生きていて、人間と今でもコミュニケーションをとっておられる。という点は同じですが、この創造主なる神様の理解はほぼ180度異なるということです。
イスラム教のアッラーは、人間に対して、決まり事を定め、それが守られない場合は原則厳罰に処せられることになります。(ケースバイケースで、赦される場合もあります。)
どちらかというと因果応報的なんですね。
しかし、キリスト教は180度違うんです。すべて赦されます。しかもそれでけではありません。
その過ちをもプラスに変えて、それによって多くの祝福、必要を満たしてくださいます。
まだまだ、イスラム教の学びは途上ですからあまり確定的なことは言えません。もし、この考えが間違っていればご指摘ください。
ここまでの学びで、イスラム教、キリスト教のどちらが正しいのかについては、結論は出ていません。
結論は、今後学びが深まっても出ることはないでしょう。
これは、宗教というものは、神様との絆、コミュニケーションですから、科学的対象ではない。論理的に説明できるような対象ではないからです。
じゃあ、あなたはなぜ、キリスト教を信じるのかと問われれば、
私はこう答えます。
キリスト教のほうが感動的だから。こころ動かされるから。面白すぎるから。
そして、キリストが好きだから。
如何でしょうか?
キリスト教と言う言い方は個人的には嫌いです。教えではないからです。キリスト教とはイエス・キリストそのものだからです。この方の人柄、愛によって築かれていく絆だからです。いのちそのものです。
だから、こう申し上げます。
イエス・キリスト(キリスト教)は決して、禁欲的で厳しい律法主義的なお方ではありません。
そして、生きる力なんです。何事も益に変えてくださいます。
自殺なんてしてる場合ではありません。
こんな夢物語はあるわけがないのでしょうか?
現代人は、賢くなりすぎていませんか?学歴も上がり、何事も論理的に考えるようになりました。科学的根拠を求めるようになりました。
しかし、つい500年前ぐらいまでは、形而上の世界、目に見えない世界が今よりもっとリアルでした。
それは、昔は今より劣っているからでしょうか?
本当にそうでしょうか?
京都の神社仏閣はなぜ、今もなお、多くの人を魅了するのでしょうか?
それは現代でも通用する、その芸術性の高さ、美しさにあるのではないでしょうか?
決して昔が今より劣っているとは思えないんです。
論理性に固執するあまり、過度に近視眼的になっていないでしょうか?
目に見えるものでしか判断しない現代。多くの人が幸せだと思えず、自殺者は毎年2万人を超えています。
敢えて論理的に考えてみましょう。
人は生れるときを知りません。死ぬ時もわかりません。死ぬときを選ぶことが出来ません。
いやいや死ぬことは選べる。自殺すればいいのではないか?
残念ながら自殺しようとしても死ねないケースはいくらでもあります。
現代人の多くは、自分の人生は自分のものだと考えています。
しかしどういうわけか、生まれるときも、死ぬときも選ぶ権利はないのです。
自分の人生なのにこんな不条理はあるでしょうか?
しかし、
クリスチャンは違います。
自分の人生は神様のものだと。だから、生まれることも死ぬこともできないのは当然であると理解します。
そして人生が自分のものではないのであれば、自分に責任はありません。
神さまがすべて責任を取ってくださいます。神さまは愛ですから、素晴らしい人生になるのは間違いありません。
とても自殺する気にはなれません。
如何でしょうか? クリスチャンの考えはあながち、ハチャメチャではないのではないでしょうか?