ぺかどおる(もと簡潔!ラテン新聞)

地球の裏側にあるブラジルから見た世界は一体どうなのか。ブラジルニュースサイトGOSPEL PRIMEの協力により翻訳記事を提供出来ることになったことがキッカケでブログ始めました。 私はポルトガル語を勉強するクリスチャンですので、ブラジルとキリスト教を通して国際政治、経済、社会を見ていきます。そして合わせて展開するポルトガル語サイトを通してわかった海外アフィリエイトのやり方もお知らせしていきます。

2016年07月

alegria


2016年7月29日


とても、とても暑い日が続いています。


 第4回で、


何よりも救われた人と良き信頼関係を構築されたいとお考えの神様は、そのためにはすべてのことを用いて、たとえそれ(救われた人の行いや考え)が間違いであったとしてもそれを活かして祝福し、神様への信頼関係を築いてくださるのです。

ということについて、創世記を通してお分かち致しました。


救われた人、クリスチャンの行いや考えが間違っていたとしても、罰するどころか、祝福や憐みの源として下さる。


こんなこと信じられますか?しかし、これが聖書が語っている神さま、イエス・キリストのお人柄です。



本当にこれは鳥肌が立つほどの凄い驚きです。キリストの人間への思いは夏の暑さどころではありません。めちゃくちゃ熱い!!



今、キリスト教徒から見るイスラム教というシリーズでイスラム教について学んだことを


投稿しております。


まだ道半ばですが、次第に明らかになっていることは、


イスラム教もキリスト教も、この世界は唯一の創造主なる神さまによって創造され、神は今も生きていて、人間と今でもコミュニケーションをとっておられる。という点は同じですが、この創造主なる神様の理解はほぼ180度異なるということです。



イスラム教のアッラーは、人間に対して、決まり事を定め、それが守られない場合は原則厳罰に処せられることになります。(ケースバイケースで、赦される場合もあります。)



どちらかというと因果応報的なんですね。



しかし、キリスト教は180度違うんです。すべて赦されます。しかもそれでけではありません。


その過ちをもプラスに変えて、それによって多くの祝福、必要を満たしてくださいます。



まだまだ、イスラム教の学びは途上ですからあまり確定的なことは言えません。もし、この考えが間違っていればご指摘ください。


ここまでの学びで、イスラム教、キリスト教のどちらが正しいのかについては、結論は出ていません。
結論は、今後学びが深まっても出ることはないでしょう。


これは、宗教というものは、神様との絆、コミュニケーションですから、科学的対象ではない。論理的に説明できるような対象ではないからです。


じゃあ、あなたはなぜ、キリスト教を信じるのかと問われれば、



私はこう答えます。



キリスト教のほうが感動的だから。こころ動かされるから。面白すぎるから。



そして、キリストが好きだから。



如何でしょうか?


キリスト教と言う言い方は個人的には嫌いです。教えではないからです。キリスト教とはイエス・キリストそのものだからです。この方の人柄、愛によって築かれていく絆だからです。いのちそのものです。



だから、こう申し上げます。


イエス・キリスト(キリスト教)は決して、禁欲的で厳しい律法主義的なお方ではありません。 


そして、生きる力なんです。何事も益に変えてくださいます。

自殺なんてしてる場合ではありません。





こんな夢物語はあるわけがないのでしょうか?



現代人は、賢くなりすぎていませんか?学歴も上がり、何事も論理的に考えるようになりました。科学的根拠を求めるようになりました。




しかし、つい500年前ぐらいまでは、形而上の世界、目に見えない世界が今よりもっとリアルでした。



それは、昔は今より劣っているからでしょうか?



本当にそうでしょうか?




京都の神社仏閣はなぜ、今もなお、多くの人を魅了するのでしょうか?




それは現代でも通用する、その芸術性の高さ、美しさにあるのではないでしょうか? 



決して昔が今より劣っているとは思えないんです。



論理性に固執するあまり、過度に近視眼的になっていないでしょうか? 






目に見えるものでしか判断しない現代。多くの人が幸せだと思えず、自殺者は毎年2万人を超えています。



敢えて論理的に考えてみましょう。


人は生れるときを知りません。死ぬ時もわかりません。死ぬときを選ぶことが出来ません。


いやいや死ぬことは選べる。自殺すればいいのではないか?


残念ながら自殺しようとしても死ねないケースはいくらでもあります。



現代人の多くは、自分の人生は自分のものだと考えています。


しかしどういうわけか、生まれるときも、死ぬときも選ぶ権利はないのです。



自分の人生なのにこんな不条理はあるでしょうか?




しかし、



クリスチャンは違います。



自分の人生は神様のものだと。だから、生まれることも死ぬこともできないのは当然であると理解します。



そして人生が自分のものではないのであれば、自分に責任はありません。



神さまがすべて責任を取ってくださいます。神さまは愛ですから、素晴らしい人生になるのは間違いありません。



とても自殺する気にはなれません。

如何でしょうか? クリスチャンの考えはあながち、ハチャメチャではないのではないでしょうか?










 

alegria



イエス・キリストは、決して因果応報や自業自得なんてちっぽけな神様ではありません。

2016年7月28日


このコーナーはほぼ一か月ぶりの更新になりますね。


ところで、前回までの投稿を読み直してみて、わかりにくいなあと思うところを加筆修正致しました。お時間ございましたら、前回までの投稿(2016年7月28日という日付の前までの文章)もあらためてご覧頂ければと思うんです。


ところで、ところで、聖書の一番最初といえば、



創世記ですね。


創世記。クリスチャンでない方でもこの言葉はご存知の方がおられるでしょう。



創世記は聖書で一番最初に出てきますから、聖書でも最も読まれていると言われています。


創世記を読んで感じることは、



やはり、イエス・キリストははんぱなく、猛烈に救われた人を愛しておられる。


ということです。



アブラハムと言う人が出てきます。


アブラハムは神さまから、

「今から旅に出なさい。おまえを偉大な国民の父にしてやろう。おまえを祝福しよう」


と言われ、その通りに旅を始めました。


旅には危険がつきものです。


エジプトに来たとき、妻のサライが綺麗なので、妻を奪うためにアブラハム自身が襲われるのではないかと思い、サライにアブラハムの妹だと言わせました。兄という立場なら逆に良くしてもらえると考えたのです。


案の定、アブラハムは多くの羊、ロバなどの家畜、男女の奴隷などを王からもらいました。


アブラハムは恐れました。神様から祝福を約束されているのですから、恐れず神様を信頼していれば大丈夫だったのに、神を信じずに自分で策を講じました。


このあと、王にサライが妻であったことがバレて、アブラハム夫妻はエジプトから追放されました。しかし、獲得できた財産までは没収されませんでした。。


ここで、不思議に思うのは、自業自得ではないんです。神を信じずに行った行為ですから、神様から見れば反抗的な行いであったわけですから、アブラハムに対して何か懲罰的な結果がもたらされても不思議ではありません。


しかし、妻は王の手から戻され、そのうえ財産までも手に入れることが出来たのです。


アブラハムは放浪の旅を続けることになりました。アブラハムは非常に裕福になりましたが、一緒に旅を続けてきた甥のロトも裕福になったので、同じ場所では管理出来なくなり、ロトはソドムとゴモラという町に引っ越すことになりました。


そのころ、その地方で大きな戦争が起こり、甥のロトが捕虜にさせられてしまいました。


このロトを救出するために、アブラハムを一族総勢318人を引き連れ、戦争に勝ったほうの軍に対して、夜、奇襲をしかけました。それがまんまと成功してしまったのです。ロトだけではなく奪われた財産までも取り戻すことが出来たのです。


地域を治める王に率いられるような軍隊に、親戚連中で組織した素人集団が勝利したのです!!!!


ありえません。大体、このような軍隊に奇襲を仕掛けることすらありえないのですが、それが成功までするのは信じがたいことです。


アブラハムが奇襲を決起することが出来た背景には、先のエジプトでの経験もあったのではないかと思います。神様への信頼がより強くなったのだと思います。それがあの奇襲作戦につながり、勝利までしてしまいました。


神さまが約束してくださった通り祝福されたのです。


この祝福は、アブラハムの子孫の代になっても続きます。


アブラハムの孫にあたるヤコブは、ヤコブには双子の兄エサウがいましたが、神さまから「兄が弟に仕えるようになる」と約束されていました。


ヤコブの父イサクが晩年に長子であるエサウに祝福を与えようとしましたが、ヤコブは母と結託し、兄に変装し、父を騙して祝福を奪いとりました。


このことで、ヤコブは兄から遠ざかり、母の実家のあるカランの地に逃れることになりました。


ヤコブはそこで大変な思いをするものの、結果的に12人の息子と1人の娘を与えられました。



ヤコブも策を講じてしまいました。それでほぼ追放されるような形になってしまいしたが、多くの子供に恵まれることとなりました。ヤコブも約束されていたのですから、策を講じる必要はありませんでした。でもヤコブにはまだ神様への信頼がありませんでした。信じられなかったのです。


そして、そして、祝福物語は続きます。


ヤコブの息子たちの中でも、ヤコブが本当に愛した妻ラケルの子であったヨセフは腹違いの他の兄弟よりも父に愛されていました。


妬ましく思っていた兄弟たちは、ある日ヨセフを売り飛ばしてしまいました。兄弟は父ヤコブに対しては、野で野獣にかみ殺されたとうそをつきました。


売り飛ばされたヨセフはエジプトに行きました。そこでやることなすこと成功したヨセフは王に取り立てられ、王の次に偉い立場で行政を任されることになりました。


全世界的な飢饉に見舞われていたものの、エジプトだけは食糧を蓄えていたため、難を逃れていました。さらに諸外国からエジプトに食糧買い付けにくる人も大勢いました。そんな中に、このヨセフを売り飛ばした兄弟達も買い付けにエジプトに表れ、ヨセフと運命的な出会いを果たし、彼ら兄弟をはじめヤコブの一族はエジプトで不自由なく暮らしていけるようになったのです。


如何でしょうか。救われた人でも、時には信じられず、罪を犯してしまいます。しかし、それら一つ一つを通して、どういう訳か祝福というか、憐みを与えて下さるのです。神に従わなかったとしてもです。


聖書の神は、イエス・キリストは、決して因果応報や自業自得なんてちっぽけな神様ではありません。


何よりも救われた人と良き信頼関係を構築されたいとお考えの神様は、そのためにはすべてのことを用いて、たとえそれが間違いであったとしてもそれを活かして祝福し、神様への信頼関係を築いてくださるのです。


というわけで、やはりタイトルはおかしいですね。「聖書に従うとどうなるのか実験してみますので。。。」従うというのは、失礼。アブラハムやヤコブたちの歩みを見てもわかるように、従えないけれども、すべてを益に変えてくださる神がいました。そして神が必要をも満たしてくださいました。奇跡もありました。


だから、救われた人には神はどうされるのか??人は救われるとどうなるのか?にタイトルを変更致します。


人生楽しみですね。神は何をして下さるのか。奇跡だってありますよ!!

人生は自分で切り開くものといいます。日本人にとっては常識かもしれません。


しかし、

クリスチャンにとっては、神様が切り開いてくださる人生を楽しむ。ということになります。自殺なんかしている場合ではありません。


よく、クリスチャンは聖書で禁じられているから自殺しないなんて言われますが、違います。神様が切り開いてくださる人生を楽しいから自殺なんかしてる場合ではないということです。


何をやってもそれを有効活用してくださるんです。信じられますか?


救われた人ってどんだけ素晴らしいのでしょうか?


救われたとは、受け身の表現です。これは人間には出来ないということなんです。人間自身には自分自身を救うことが出来ないということです。


それは神様がお出来になることです。救われるためにはどうすればいいのでしょうか、


救われてイエス・キリストを信頼する。

でも人間には出来ないんでしょ??そうなんです。

だから神様に救ってもらうしかないんです。どうすれば救ってもらえるか?


少しでも救ってもらいたいと思えば救ってくださいます。・・
 文中の、2016年7月28日以降が本日更新したところです。


 

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今、平和が脅かされています。



全世界でテロも頻発し、今後ますますエスカレートしていき本格的な戦争もやむ終えずといった風潮につながる可能性すらあると言わざるを得ません。



佐藤優さんのようにすでに第三次世界大戦は始まっていると指摘する有識者の存在からも、決して戦争は対岸の火事では済まされない現実がすでにあると考えたほうがいいでしょう。


今、日本に求められるのは何よりも主体的な理念ではないでしょうか?


日本は古来より「和を以って尊しとなす」とする伝統があります。

聖徳太子によると言われる十七条の憲法の第一条冒頭に出てくるこのフレーズには、


人はえてして派閥や党派などを作りやすい。そうなると偏った、かたくなな見方にこだわって、他と対立を深める結果になる。そのことを戒めているのだ。 それを避けて、人々が互いに和らぎ睦まじく話し合いができれば、そこで得た合意は、おのづから道理にかない、何でも成しとげられる-というのだ。 

という理念が背景にあると言われています。



近代合理主義のもとに形成されてきた現代社会にいま、さまざまなほころびが生じていることには異論はないと思います。


圧倒的な物量という力によって世界を席巻してきた結果が、今この現実社会に横たわる数多くの問題なのではないでしょうか?


欧米列強の力の前に、当時の日本の指導者達は、欧米に対して力で対抗しようとしました。


しかし結果として、そのいきついた先は太平洋戦争での降伏でした。



この時点で私たち日本は、力の論理からの決別を宣言すべきだったのかも知れません。


力の論理がもたらすものはほんの少しの勝者とおびただしい敗者なのです。



「和を以って尊しとなす」とは、少数意見にも耳を傾け、互いに和らぎ睦まじく話し合うところから合意を形成していこうという理念です。


力の論理によって多くの弊害が表れているのですから、その原因となっている「力の論理」を変えなくてはいけません。力の論理とは180度違う新しい論理で社会を作り直していく必要があるのではないでしょうか?



そこで「和を以って尊しとなす」という理念の具現化の手段として、国会に拒否権制度を導入することをお勧めしたいと思います。



現在、日本国憲法の改憲論議が活発化しています。しかし、改憲派と護憲派の議論はかみ合っていないように思いますが、この原因は互いに自らの主張を繰り返すことに終始していることではないでしょうか?


しかしこれは多数決原理のもとではやむ終えないことだと思います。最終的には数で決まってしまうのですから
互いに相手のことを考えたコミュニケーションなど必要ないからです。議論に見せかけた主張をしていればいいわけです。


しかし、拒否権制度を導入すれば、そうはいきません。合意形成のために互いの考えを真剣に聞くようになります。議論のための議論ではなく、本当の意味での議論、いわばコミュニケーションをとるようになり、本当の意味での話し合いによる合意に到達できる可能性が出てくるのです。



私は、膠着する憲法議論に以下の提案をしたいと思います。

日本の伝統でもある「和を以って尊しとなす」の理念を加え、その具現化として、憲法第56条を改正し各出席議員に拒否権を与えることを明記する。


改憲派の方々の主張のひとつに、現行憲法はアメリカから押し付けられた憲法であるというものがありますが、日本人の手でしかも日本の伝統を盛り込むことによって、改憲派の主張を満たします。


そしてこの提案は、特に無党派層からの支持は一定程度あると思いますので、世論を喚起できる可能性は十分にあります。


国民的世論になれば世界からも注目を集めるようになり、日本が生み出した新しい民主主義の形として国際社会への実に効果的なアピールにつながります。

「和を以って尊しとなす」という思想の背景には仏教があります。日本と同じく仏教文化が根付くアジア、特に東、東南、南アジアの人々へのメッセージとして効果的でしょう。

特に、中国や韓国との間には依然、先の大戦におけるわだかまりが残っていますが、この姿勢は日本が先の大戦での結果を真剣に受け止め反省しているひとつの表れとして受け止められる可能性があります。



そしてこれはテロ抑止効果にも繋がると思っています。中近東と同じように欧米の力に翻弄されてきた日本での新しい「生き方」は、テロリスト達にも少なからず影響を与えるのではないでしょうか?



日本は既に、毎年赤字国債に頼っている破産国家であります。テロ対策に莫大な予算を投じる余裕はないはずです。であれば、お金のかからない理念で対応してみる価値は十分にあります。


そして、少数意見が政策に反映されるようになります。少数意見は、特に危機的状況では非常に価値の高いものなのではないでしょうか?

あのヒトラーも、選挙を通して選ばれ、その後は数の力で次々とひとりよがりな政策を実現していきました。


少数意見の反映は、時として国家の暴走を阻止し、国民の命を守ることにもつながるのです。


以上、メリットとして考えられるものは、

1、息詰まる憲法論議に一石を投じ世論を喚起する。
2、国際社会への効果的な日本アピール
3、特にアジア諸国に対する友好親善への新たなアプローチ
4、お金のかからないテロ対策
5、少数意見の反映によって国家の暴走を防ぐ


政治家の皆さま、よろしくお願い致します。









 

chines


チベットといえば、


仏教徒が多数を占める地域として有名です。



現地には多くのイスラム教徒もいますが、仏教に改宗するイスラム教徒も少なくありません。




しかしながらこのチベット仏教は、中国政府からは迫害の対象とされてきました。




このような状況下にあって、キリスト教の宣教師は微妙な立場に置かれていました。




宗教への改宗は1949年以降違法とされ、西洋からの宣教師は強制送還されていたものの、




宣教師達は教師やビジネスマンとして現地に入る場合が多く、ほぼ無料で授業を行い、さらに生活費を補助するなどの活動、そして多くの利益をもたらすビジネスを現地で活発化させるといった経済効果をもたらしています。

そして彼らは、自身の宣教活動を妨害されないようにするため、公然と地域政策の批判をしないなど、政治的にも従順な態度を示していることから、以前のような頑なな態度を軟化させ、活動を黙認する状況がここ数年続いてきました。

しかしここにきて、クリスチャンへの改宗者が急激に増えてきていることで、政府当局の軟化政策に変化が表れてきています。



クリスチャントゥデイによると、去年一年間で20万人のチベット系住民がキリスト教に改宗したとしています。



習近平主席は、「宗教マネジメントこそ大衆マネジメントである」と位置づけるほど宗教問題が内政における喫緊の課題であることは間違いないと見ていいでしょう。


この内政問題が、外交政策にも影響を及ぼしてくる可能性も大きくなってきています。



関連記事
【中国】クリスチャン人口は日本の人口とほぼ同じ。既に中国共産党員数を上回る。
習近平国家主席「宗教マネジメントこそ大衆マネジメントである。」キリスト教はなぜ迫害されるのか考えてみる。



参照:

Christian Today
http://www.christiantoday.com/article/what.showing.gods.love.can.do.200000.tibetans.including.62.buddhist.monks.decide.to.follow.jesus/88890.htm

theguaridian
https://www.theguardian.com/world/2013/feb/21/going-undercover-christian-evangelists-tibet

Gospel Prime(参照及び画像データ元)
https://noticias.gospelprime.com.br/missionario-no-tibete-relatas-suas-dificuldades/


 

alegria


ブラジルではトップモデルとしての名声を博しているマリア・メリロ。


彼女は3年前に肝臓がんでの闘病中に、イエス・キリストを受け入れ、信仰生活を開始しました。



そんな彼女の毎日を通して、クリスチャンの信仰生活とはいったいなんなのか。何か違うことがあるのか?何もないのか??


何か少しでも分かればと思い、インスタグラムや記事を通して彼女のありのままの人生を垣間見ていきたいと思います。


今ポルトガル語は勉強中ですが、もう少し上達すれば、直接コンタクトを取ってみたいと思います。


ツイッターにはメアドまで掲載されているのでコンタクトを取っていきたいと考えています。

@rolimdaniel O Tempo passa. A vida acontece. A distância separa.. As crianças crescem. Os empregos vão e vêm. O amor fica mais frouxo. As pessoas não fazem o que deveriam fazer. O coração se rompe. Os pais morrem. Os colegas esquecem os favores. As carreiras terminam. Os filhos seguem a sua vida como você tão bem ensinou. MAS... os verdadeiros amigos estão lá, não importa quanto tempo e quantos quilômetros estão entre vocês. Um amigo nunca está mais distante do que o alcance de uma necessidade, torcendo por você, intervindo em seu favor e esperando você de braços abertos, e abençoando sua vida! E quando a velhice chega, não existe papo mais gostoso do que o dos velhos amigos... As histórias e recordações dos tempos vividos juntos, das viagens, das férias, das noitadas, das paqueras... Ah!!! tempo bom que não volta mais... Não volta, mas pode ser lembrado numa boa conversa debaixo da sombra de uma árvore, deitado na rede de uma varanda confortável ou à mesa de um restaurante, regada a um bom vinho, não com um desconhecido, mas com os velhos amigos. Quando iniciamos esta aventura chamada VIDA, não sabíamos das incríveis alegrias ou tristezas que estavam adiante, nem sabíamos o quanto precisaríamos uns dos outros.

Maria Meliloさん(@mariamelilo)が投稿した写真 -




時は過ぎ、

距離はお互いを隔てる。


子供たちは成長し、


仕事はなくなり、そして与えられる。


そして愛は冷めていく。


人はやるべきことをせず、


こころは張り裂ける。


親は死に、


仲間たちも離れていく。


困難は終わる。


子供たちはあなたが教えた通りの道を歩む。



しかし、本当の友はそこにいる。


互いを隔てる距離や、時間は関係ない。


あなたを励まし、応援し、あなたの必要を満たしてくれる。



両手を広げ、あなたを待つ。



あなたを祝福する!!


(以上、インスタグラム投稿より)


この「あなた」とはいったいだれのことでしょうか??





彼女は、より自然と触れ合い、旅をし、そして結婚して子供を持ちたいそうです。


さすがブラジル人だけあって率直ですね。




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