ぺかどおる

「あなたが右に行くにも、あなたの耳はうしろから、『これか道だ。これに歩め』ということばを聞く。」(イザヤ書30章21節) 「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイの福音書6章33節) 私は海洋散骨事業、そして通訳ガイドを営んでおります。毎日の生活はサラリーマンのように保証されておりません。しかし私は聖書を信じています。私の人生は上の御言葉の通り、神様がきめ細かく導かれ、必要なものも備えて頂き、充実した幸せな人生であることを確信しています。このブログではそんな私の歩みも綴らせて頂きたいと思います。宜しくお願い致します。

2015年11月

eK7zRjaJI5


 「預言」とかいうと、文明の発達した現代に於いてどん引きされる言葉だと思う。またどこぞの如何わしい新興宗教の類が好き好んで使いたがる言葉であるのは間違いない。私自身、聖書学者でもなく、所詮不完全な一キリスト教信仰者に過ぎないので、この手の話題を扱う際は、心して取組まないと大きく道を誤ることになる。

 ただ、聖書が他の書物と大きく違うのは、時空を超えているところだ。旧約聖書が書かれたのは紀元前の時代であり、その時から将来の救世主の到来について「預言」していた。 新約聖書でその「預言」の内容が、イエス・キリストであったことが述べられている。まさに預言が成就したのだと。しかしユダヤ教では新約聖書を認めておらず、旧約聖書での救世主の到来はまだこれから先の話だとしている。ユダヤ教からすれば、キリスト教こそ、世界最大の如何わしい新興宗教なのだ。そして、そのユダヤ教徒が多くを占める国、それがイスラエルである。このポイントは世界を理解する上で欠かせないことだ。

 イエス・キリストは日本の世界史の教科書にも登場しており、キリスト誕生以来、暦が変わり、今年は2015年目ということになる。(実際キリストの誕生した年については諸説ある。)そして暦が変わってから、ユダヤ教とキリスト教は互いに反目し合ってきた。聖書によれば、当時のユダヤ人の宗教指導者(当時は勿論まだキリスト教は存在しておらず、当時のユダヤ人にとっての宗教といえば、現在のユダヤ教)がローマ帝国総督ポンテオ・ピラトを唆し、イエスキリストを十字架に架けたとされているため、キリスト教徒はユダヤ教徒を激しく迫害してきた。

 確かにキリストの処刑にユダヤ教徒が関与したのは、聖書によれば事実であり(学問的な視点では諸説ある。)、聖書を受け入れる私としてはこれを受け入れている立場にある。しかし、キリストの死によって人類の罪の救済が実現されたとも記されており、ユダヤ教徒を責めると言うのはお門違いであると考えている。歴史を振り返る時、キリスト教側が大いに反省すべき点は実に多い。そしてユダヤ教は間違っているということも言えない。私はキリストを受け入れているが、証明している訳ではない。このブログではたびたび言及しているが、宗教というのは証明の対象とは成り得ない。RELIGIONという単語の語源はRELATION(関係)であり、論理的整合性をベースとする学問ではないからだ。

 ユダヤ教とキリスト教の抗争の歴史は現在にも暗い影を落としている。ユダヤ教徒達が国際経済に与える影響は現在でも実に大きい。これは度重なる迫害によってなかなか定住出来る土地を持てなかったユダヤ教徒達が経済力を求めた結果でもある。そしてこの経済力の打破を図ったのがヒトラーである。そして更に、IS(イスラム国)を背後で操る国々と旧約聖書にも書かせて頂いた通り、IS(イスラム国)へのイスラエルの関与の憶測だ。日本の主要メディアではこの視点は殆ど放映されないが、歴史的背景から、中東やヨーロッパではこういった憶測が渦巻いている。

 話は、旧約聖書に戻る。旧約聖書には多くの預言が記されておりそれはこの世界の終わりについても多くの預言がされている。その一つが、旧約聖書エゼキエル38章2節から描かれている。

人の子よ。メセクとトバルの大君であるマゴグの地のゴグに、あなたの顔を向け、これに対して預言して、言え。主なる神はこう言われる。メセクとトバルの大君であるゴグよ、見よ、わたしはあなたの敵となる。わたしはあなたを引きもどし、あなたのあごに鍵をかけて、あなたと、あなたの全ての軍勢と、馬と騎兵とを引き出す。彼らはみな武具をつけ、大盾、小盾を持ち、すべてつるぎをとる者で大軍である。ペルシャ、エチオピヤ、プテは彼らと共におり、みな盾とかぶとを持つ。・・・

太線で記したゴグについては、14節以降で、
主なる神はこう言われる、わが民イスラエルの安らかに住むその日に、あなたは立ち上がり、北の果のあなたの所からくる。・・・


と北の果てにあるとされていて、ゴグはロシアではないかという解釈が一般的である。そしてゴグは上述の通り、ペルシャやエチオピヤ、プテ、などと共におり、、となっている。ペルシャは勿論、現在のイラン、エチオピヤ
プテは北アフリカの地域(具体的な国などは諸説ある。)と理解されている。。

ロシアとイランはここ数年急接近している。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151124/k10010317251000.html

そして、アフリカで急拡大しているのがボコ・ハラムである。イギリスの経済平和研究所の最新の調査によると、世界全体のテロによる犠牲者の半数は、ボコ・ハラムとISによるものであるとされ、2014年のボコ・ハラムによる犠牲者は6684人に上り、ISによる犠牲者6073人を上回っているという。北アフリカにおけるボコハラムへの対策も浮上してくるであろう。

 エゼキエル書の預言を想起してしまうような状況に近づいている気がしてならない。エゼキエルの預言それがいつなのか、それについては神しかわからない。キリスト教がそして聖書が正しいというのはおかしな主張だと思う。それは証明されるべき学問ではなく宗教だからだ。(宗教という言葉は学問や哲学を想起させる。日本語の宗教はRELIGIONを訳した際に登場した造語であって、RELIGIONの語源であるRELATION(関係)を考慮し、個人的には宗教ではなく「絆」と訳したい。)だが、事実としてキリスト教が歴史上良くも悪くも実に多大な影響を及ぼしてきたのは受け入れざるを得ないであろう。全世界でもっともポピュラーな年号はキリストの生誕を起源とする西暦なのである。世界を理解するうえでキリスト教は必須である。

画像&引用:GOSPELPRIME
https://noticias.gospelprime.com.br/boko-haram-maior-terrorista-mundo/
参照:
https://www.worldwatchmonitor.org/2015/11/4114090/
  

lgf01a201401100200

 トルコによる、ロシア軍機撃墜のニュースに、思わず昨日の投稿がより現実味を帯びてきている感じを受けた。撃墜とは、また思いきったことをしたものである。ロシア専門家の筑波大中村逸郎教授も、食事でのどを詰まらせたとかなんとか、、TBSひるおびでコメントしていた。専門家でも予想だにしなかった急転直下の惨事なのではなかろうか。IS(イスラム国)掃討作戦で世界は一つになるかの様相を見せていた中での今回の撃墜はいろいろな意味で意義深い。

 昨日の投稿でもユダヤ教徒の最大の敵はキリスト教徒だ。イスラム教徒ではない。これはIS( イスラム国)の敵と同じだ。そして、アラブ系難民がイスラエルの孤立を招くでも書いたが、ヨーロッパをはじめ、世界各地に押し寄せる難民をイスラエルは恐れている。それは、アラブ系住民が増えることによって、将来的に世論がアラブよりに変わってしまうからだ。その意味でフランス同時多発テロによって結果的に難民流入が減少することは、イスラエルにとっては好都合だ。だからテロを首謀したとするIS( イスラム国)へのイスラエルの関与を指摘されるのである。そしてロシアは、イスラエル関与説を認識していると思われる。ロシアとイスラエルの関係については、飯山一郎さんが面白い指摘をされている。

 ロシアとトルコが加盟するNATO諸国との間にくさびを打ち込んだ形になる今回のロシア機撃墜事件は、私が信頼している飯山一郎さんも早速イスラエル関与説を投稿されておられる。そして、アフリカでのボコ・ハラムの動きも目が離せなくなくなってきている。ボコ・ハラムもISへの忠誠を表明していることから、間接的にイスラエルと繋がっている可能性は否めない。アフリカでもボコ・ハラム掃討作戦が始まる可能性が高い。イスラエル包囲網がじわじわと形成されつつある。


画像著作者:
Thomas Leuthard

gf01a201503312300

ボンジア!!

10、口と舌とを守るものは、その魂を守って、悩みにはあわせない。(箴言21章23節)

まず、神様のもとに帰ること。神様に降伏すること。そうすれば、愛の神様がよくして下さる。

自分勝手に行動してしまう人間は、神様が受け入れようにも人間は自分勝手にやりたいから、神様のもとにはこない。自分勝手に出来るのはいいけれど、人間は完全じゃないから、失敗し挫折する。人を傷つけ、自分を傷つけ絶望する。行き着く先は「死」以外の何物でもない。戦争は、生きるか死ぬかの二つに一つしかない。負ければ死ぬ運命にある。降伏したとしても、もはや自分の運命は敵の判断に委ねられ、人間にとって最も大切な自由はない。自分勝手に生きるとは、神様に逆らうまさに戦争のようなもの。しかし、神に勝てる人間は誰ひとりいない。だから人間は本来死ぬ運命にあると聖書は言う。戦争犯罪者は死刑になるのと同じだ。

イエス・キリストとは一体何なんだろう。。聖書は言う。人間の代わりに死刑を受けて下さった。。そして蘇ってくださった。蘇ってくださったから今も生きている。生きているから信じる者を助けることが出来る。生きているなら今すぐここに来てくれといいたくなる。。大丈夫だ。目には見えない聖霊として信じる者を助けて下さる。余計な事を言って人生を台無しにしないように助けて下さる。。。聖書は過去の産物ではなく今も有効だ。だから世界のベストセラーの地位が揺るがない。。

こんな話を聞いて、人間の知性によって生きる現代日本人にはキショいと思う人もいるかもしれない。。というかそう思うのがあたりまえだろう。。私もこれ以上何もいえない。。ただ聖書はそういっていて、今も世界中でクリスマスが祝われているのはこの聖書の証言が起源であるのは事実だ。。

第6回もお楽しみに!じゃね!ちゃお 

 太字部分引用: Você para Deus
 http://www.voceparadeus.com/2015/11/30-versiculos-para-conforto-no-sofrimento.html

あなたを慰める言葉 第1回
あなたを慰める言葉 第2回
あなたを慰める言葉 第3回
あなたを慰める言葉 第4回

paris-843229_640

 RELIGIONを日本語では「宗教」と訳すんやけど、、RELIGIONはRELATION(関係)と同じ語源(だったはず?)だから、宗教と訳すのはちと違うような気がする。宗教という言葉から感じるニュアンスは、「学問」であったり「哲学」ではないやろか??

超有名ブロガー、イケダハヤトさんが意味深い投稿をされているが、
ぼくはブッダの教えは、四書五経に近いものだと理解しています。
と、わかりやすくおっしゃってはる。。。日本に深く根付いている宗教である仏教が学問的であるが故に、英語のRELIGIONを学問的なニュアンスである「宗教」と訳したのではないかと思うんやけど、どうでしょ?そやから、本日を持って、RELIGIONは「絆」とさせて頂きます。。勝手に。。別にええやろ?

 さあ、ところでSEALDsさんのメンバーが、
「言えることは、暴力に暴力で返すってのは危険な考えだってこと」。「つらいですよね。でも、そこで踏みとどまらないと。恨みだけではいけない」
というような発言をされて、ネットでバッシングしてる人もいてはります。
http://hamusoku.com/archives/9080756.html

http://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/429888/blogkey/1281246/

正直、両方の立場に賛成したいんです。シールズさんのおっしゃる通り、憎しみは危険。恨みが暴力を引き起こす。だから断ち切らんと永遠に繰り返される。。でも、これはあくまで理想ですやん。無理ですよ。まさにジレンマです。。理想と現実にもがき苦しむしかない。。人間に出来るのはここまで。。そうちゃいます?人間としてはここでこの話はおしまい。。そしてこの理想派のシールズさんと現実派の皆さんの間にも新たな論争が生まれる。。 折角シールズさん、平和を訴えておられるのに、その結果新たな敵を作ってしまっているんです。。もうどうしようもない。。昔からこれの繰り返しで、だから昔の人は諸行無常なんて名言を残した。的を得てますよ。。

そして、さっきのRELIGIONの話に戻りたいんです。RELIGIONを絆と訳しましたけど、

ほんまもんのRELIGIONは理想と現実を繋ぐ「絆」

これが出来んようなRELIGIONはまやかしですよ。。いろんなRELIGIONが、世の中にはあります。。私、決してどれがほんまのRELIGIONやなんて言えません。。でもこれが出来んようなRELIGIONは無くなればええと思います。。世の中、正直カルトとか、いかがわしいのもぎょうさんあります。ほんまもんかうそかを見分けるポイントは
ここです。。

今回のケースでいうのならば、シールズさんのおっしゃることがほんまに無理なく、出来てしまう何か。。ってことですね。。

日本ではRELIGIONには殆ど市民権がありません。。それは、どのRELIGIONにも理想と現実を繋ぐことが出来ていないからです。。でも世界に目を向ける時、RELIGIONの存在感がある国は結構ある訳です。。そのことをほんの少し頭の片隅にもおくことが、、世界を理解する上で必要やと思うんです。。

ま、私はイエス・キリストを信じている訳やけど、だからといってキリストがほんまもんやなんていうつもりはありません。。そう信じている。信じさせてもらえている。でもそれを証明している訳ではない。。RELIGIONはTHEORYではないから。だからRELIGIONは得体が知れない。正直怖い。 でも信じたいし、安らぎを得ている。今のところ裏切られていない。そして世界には私と同じ人はたくさんいる。。

ただ、RELIGIONにも実際的な役割があるということが市民権を得ている世界があることに気付いてほしいんです。消して過去の歴史遺産ではないと少しでも感じることは大事やと思います。
 

gf01a201503312300

ボンジア!!

9、わが悩みを見て、わたしを御救い下さい。わたしはあなたのおきてを忘れないからです。(詩篇119編153節)

クリスチャンってなんか敷居が高い気がするっていう人は多い。。あれしちゃいかん、これしちゃいかん。酒飲んだらあかん。献金せなあかん。婚前交渉したらあかん。。。。なんか息苦しくてかんべんして!!って感じ。。僕もこれだけ聞いたらクリスチャンにはならない。。絶対イヤやなあ。。自由じゃないやん。

まあとりあえず、こんなめんどくさいことはどうでもいい。ってか、どうでもいいということはないんやけど、まず今日のこの言葉、、「おきてを忘れない」に注目して頂けませんでしょうか。。。ようは神様は聖書を通していろんなことを人間に語っている。そして「おきて」とは一体なんなんやろ。

聖書には、いろんな人が出てくる。一国の王から売春婦まで。でもことごとく、神の望まれていることを完璧に出来た人はいなかった。世界史の教科書にも出てくるイスラエルの王ダビデは、自分の部下の奥さんがお風呂に入っているところを見て、一目惚れをしてしまい、彼女の夫を敢えて戦場の第一線に送り込み結局死んでしまった。そしてその妻と関係を持ち、自分の妻としてしまった。

いや、俺はそんなひどいことはしないと思う方もおられると思う。当時の王の権威は、現代の総理大臣や大統領を遥かにしのぐ。何でもありが赦される立場であった。このこと自体なんら咎められることではない。我々現代人に当てはめてみれば、ちょっと車で路駐するとか、シートベルトをしないとかの程度のこと。しかし、他人の妻を盗んだ。モーセの「十戒の姦淫してはならない」や「盗んではならない」に抵触する罪だ。ダビデにも、私と同じように、これぐらいなら赦されるのではと思ったのであろう。しかし、自分勝手な行いであったのは間違いない。

聖書は言う。
義人はいない。一人もいない。
盗んだり、人を殺したりしないかもしれない。しかし、モーセの十戒はそれだけではない、父母を敬いなさい、偽証してはならない。そして「わたし以外を神としてはならない」と言われる。自分勝手に判断したり、都合のいい解釈をしたり、物事の善し悪しを自分勝手に判断する。これこそ「自分を神としている」こと。人間はみんな自分を神としていると聖書は言う。

わたしには決していいことは出来ない。
すべてはここから始まる。これが「おきて」だ。すべてはここから始まる。もういいこと出来へんのやから生きる意味がないんちゃうかとうことになってしまう。死ね!いうことなんやろか。。

聖書はいう。
そういう訳で、あなたがたに勧める。あなたがたを生きた供え物としてささげなさい。 
これは、、「てな訳で、もう死ぬしかないんやから、もう神様に帰ってくればええやん。意地を張らなくてもええやん。」ということ。ブラジルのゴスペルでは、神様に降伏するという表現を使うことが多い。

神様は愛だとおっしゃる。。人間を愛しているとおっしゃる。人間に恋焦がれていらっしゃる。。だから一時たりとも忘れてほしくないと思っている。大好きな彼氏に彼女に、奥さんに子供には一時でも忘れてほしくないと思うのと同じように。。降伏した兵士はその相手のものになる。でもとってもいい人のものになるのは決して悪いことではないのではいか?とってもよくしてくれるから忘れられなくなる。。

神様が一番望んでいることは、「神様を忘れない」」こと。。でも人間はすぐに忘れてしまうんやね。。だから時々、人間に苦しみや悲しみを与えられる。もっともっと親しくなりたいから辛い経験を与えられるっていうこと。自分を諦めて神様のもとに帰って来られるように。。

クリスマスの、どこかロマンチックで大切な人と過ごしたくなる雰囲気というのは、まさにこの神様の愛から来ている。

第5回もお楽しみに!じゃね!ちゃお 

 太字部分引用: Você para Deus
 http://www.voceparadeus.com/2015/11/30-versiculos-para-conforto-no-sofrimento.html

あなたを慰める言葉 第1回
あなたを慰める言葉 第2回
あなたを慰める言葉 第3回
 

↑このページのトップヘ