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ボンジア!!

9、わが悩みを見て、わたしを御救い下さい。わたしはあなたのおきてを忘れないからです。(詩篇119編153節)

クリスチャンってなんか敷居が高い気がするっていう人は多い。。あれしちゃいかん、これしちゃいかん。酒飲んだらあかん。献金せなあかん。婚前交渉したらあかん。。。。なんか息苦しくてかんべんして!!って感じ。。僕もこれだけ聞いたらクリスチャンにはならない。。絶対イヤやなあ。。自由じゃないやん。

まあとりあえず、こんなめんどくさいことはどうでもいい。ってか、どうでもいいということはないんやけど、まず今日のこの言葉、、「おきてを忘れない」に注目して頂けませんでしょうか。。。ようは神様は聖書を通していろんなことを人間に語っている。そして「おきて」とは一体なんなんやろ。

聖書には、いろんな人が出てくる。一国の王から売春婦まで。でもことごとく、神の望まれていることを完璧に出来た人はいなかった。世界史の教科書にも出てくるイスラエルの王ダビデは、自分の部下の奥さんがお風呂に入っているところを見て、一目惚れをしてしまい、彼女の夫を敢えて戦場の第一線に送り込み結局死んでしまった。そしてその妻と関係を持ち、自分の妻としてしまった。

いや、俺はそんなひどいことはしないと思う方もおられると思う。当時の王の権威は、現代の総理大臣や大統領を遥かにしのぐ。何でもありが赦される立場であった。このこと自体なんら咎められることではない。我々現代人に当てはめてみれば、ちょっと車で路駐するとか、シートベルトをしないとかの程度のこと。しかし、他人の妻を盗んだ。モーセの「十戒の姦淫してはならない」や「盗んではならない」に抵触する罪だ。ダビデにも、私と同じように、これぐらいなら赦されるのではと思ったのであろう。しかし、自分勝手な行いであったのは間違いない。

聖書は言う。
義人はいない。一人もいない。
盗んだり、人を殺したりしないかもしれない。しかし、モーセの十戒はそれだけではない、父母を敬いなさい、偽証してはならない。そして「わたし以外を神としてはならない」と言われる。自分勝手に判断したり、都合のいい解釈をしたり、物事の善し悪しを自分勝手に判断する。これこそ「自分を神としている」こと。人間はみんな自分を神としていると聖書は言う。

わたしには決していいことは出来ない。
すべてはここから始まる。これが「おきて」だ。すべてはここから始まる。もういいこと出来へんのやから生きる意味がないんちゃうかとうことになってしまう。死ね!いうことなんやろか。。

聖書はいう。
そういう訳で、あなたがたに勧める。あなたがたを生きた供え物としてささげなさい。 
これは、、「てな訳で、もう死ぬしかないんやから、もう神様に帰ってくればええやん。意地を張らなくてもええやん。」ということ。ブラジルのゴスペルでは、神様に降伏するという表現を使うことが多い。

神様は愛だとおっしゃる。。人間を愛しているとおっしゃる。人間に恋焦がれていらっしゃる。。だから一時たりとも忘れてほしくないと思っている。大好きな彼氏に彼女に、奥さんに子供には一時でも忘れてほしくないと思うのと同じように。。降伏した兵士はその相手のものになる。でもとってもいい人のものになるのは決して悪いことではないのではいか?とってもよくしてくれるから忘れられなくなる。。

神様が一番望んでいることは、「神様を忘れない」」こと。。でも人間はすぐに忘れてしまうんやね。。だから時々、人間に苦しみや悲しみを与えられる。もっともっと親しくなりたいから辛い経験を与えられるっていうこと。自分を諦めて神様のもとに帰って来られるように。。

クリスマスの、どこかロマンチックで大切な人と過ごしたくなる雰囲気というのは、まさにこの神様の愛から来ている。

第5回もお楽しみに!じゃね!ちゃお 

 太字部分引用: Você para Deus
 http://www.voceparadeus.com/2015/11/30-versiculos-para-conforto-no-sofrimento.html

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