bible-428947_640

 小学生のころ、少しのろまで頭も少し大きい同級生がいた。来る日も来る日もいじめに遭いながらも
学校が大好きだった彼は休むことはなかった。彼が持ってきていた弁当にはいつも美味しそうな大学芋
が入っていた。お母さんの愛情が滲み出ていた。
 
 私は彼のことをいじめることはなかったと思う。更に時には助けたこともあった。いつもではない。見て見ぬふりをしたこともあった。でも私は、家に帰るとやはり来る日も来る日も妹をいじめていた。

 いじめ自殺が後を絶たない。そしてその都度、学校や教育委員会は再発防止の対策を講じる。全国でいじめ撲滅に力を入れているが再発は繰り返されている。これはもうしょうがない。人間の性だと思う。だからいじめ対策で考えなければならないのは、再発防止ではなく、いじめが起きた時への対応だ。いじめをなくそうという取組は、地震をなくそうとする取組と同じくらい意味がないのではないか。地震対策とは地震をなくすためにあるのではなく、地震が起きた時にどう対応するかを考える取組に他ならない。いじめも地震もこれからも起こるのである。

 それではいじめが起きた時の適切な対応とはどういうことか?はっきりした答えはわからない。しかし人は困難な時こそ成長し、困難の中に成功へのヒントが隠されているとよく言われる。今全世界で20億近くの人が信仰している(といわれている)イエス・キリストもいじめを受けた。何一つ裁かれるような犯罪をしなかったにも関わらず、濡れ衣を着せられ十字架に架けられ処刑された。頭には茨の冠をかぶらされ、唾をかけられ、皮肉たっぷりに「ユダヤ人の王」と書かれた板きれの下、十字架に架けられた。まさに皮肉にも、現代にもこんな「いじめられっ子」だったキリストを救い主と信じる人が星の数ほどいるのである。歴史上偉大な業績をあげた人が、大した業績を上げたことのない人々が、このイエスキリストを真底信じ人生を歩んできたし、今もいる。でも少なくとも言えることは、キリストを信じ歩んでいる人に不幸な人を知らない。

 聖書はいう。このイエスに人生をかけてみないか?と。いじめを受けた時にふと、立ち止まってイエス・キリストの考えてから次のことを考えてみても悪くないと思う。

 参照:【ブラジル】戦いに敗れた兵士が降伏するように

じゃあね!チャオ!