報道されている情報から推察すると、



雑木林に囲まれ、近くに
民家のない家を選び、自分の住む場所ではなく、県境を
跨いだところで犯行を実行しているところから、犯行を完遂
させるための計画性が感じられる。



そして、被害者とは何ら面識もないらしい。
あたかも「殺人」という実験を淡々と行ったかのようだ。


彼に「心」が感じられない。
「人を殺したらどうなるのだろうか」という好奇心の赴くままに
突き進んでしまったように思える。



彼のことを思い巡らせば巡らすほど、迷宮の中で身動きがとれない
感覚に襲われる。


自分のことなどもはやどうでもよく、未来にも希望が持てず、自暴自棄
になっているということでもなさそうな気がする。逮捕時の表情から、さほど
罪意識もなく、「自分のやりたいことをやって何が悪い」と思っているようにも
見受けられた。


「自分のやりたいことをやって何が悪い」と言われれば、「であれば人に迷惑
をかけない範囲でやりなさい」と答えるだろう。彼自身も恐らく聞いて来たのでは
ないか。それでも、彼の衝動は抑えられなかった。一回きりの人生、本当にやりたい
ことができないことには耐えられなかったのかもしれない。



人は、善悪ではなく、好き嫌いで生きる生物なのではないか。


アダムとイブは、エデンの園で好きなものを食べ自由に生活していた。
しかし、蛇に唆され、神から食べるなと言われていた善悪の知識の木の実を食べた。
善悪という本来神の領域である概念を知るようになった彼らは、エデンの園から
追放され、アダムは自分の力で苦労して食糧を得なければならなくなった。イブは産みの苦しみ
を持って子孫を産まなければならなくなった。


岡庭由征容疑者。こんな惨たらしいことをするなんて
人間の所業ではない。と考える方も多数いらっしゃるであろう。
でも、私は、彼は実に人間らしかったと思う。


しかし、



人間は、アダムとイブ以降、善悪の世界を生きること余儀なくされたのだ。
神でないにもかかわらず。善悪の世界は人間にとっては耐えられない世界なのだ。
善悪の世界であたかも神のようになってしまった人間には、
自分の好き勝手に生きることは許されなくなったのだ。
だから、報道が事実なのであれば、岡庭容疑者、あなたは裁かれなければならない。


最後に、岡庭容疑者。


唯一、人間が好きなように生きる道を教えたいと思う。

自分自身で勝手に善悪を判断している自分を認め、本来
善悪を判断するべき神に赦しを乞うこと。

イエス・キリストは勝手に善悪を判断している人間一人一人の身代わり
となって死んでくださった。そして甦ってくださり、私たち一人一人
と今も共に生きてくださっておられ、私たち人間が本来あるべき本当の人間
の姿へと日々作り変えてくださっておられることを知って欲しい。




まだ私もキリストによって作り変えてもらっている最中だからまだまだだけれど、
少しづつ好きなことをやって生きていけるようになって来たと思う。