すべての人は気づく気づかないに関わらず、何かに頼って生きています。
 
 私はクリスチャンです。なぜ私がクリスチャンになったのかは改めて書きたいと思いますのでもうしばらくお待ちください。すべての人は気づく気づかないに関わらず、何かに頼って生きています。或る人は、家族であるかもしれません。友人であるかもしれません。そして地位に頼っている場合もあるでしょう。お金の場合もあります。そして、何にも頼っていませんと言う人も確かにいます。しかし、こういう人は自分自身に頼っています。。いやいや自分自身にも頼っていないと言う人もいるかもしれません。その人は、この世界には、頼れるものは何もないというご自分の信念に”頼って”います。

 この頼るという行為には何か客観的な裏付けがある訳ではありません。しかし、だれでも何がしかに頼っています。もうこれは本能的なものではないかと考えざるを得ません。この「頼る」対象こそ、その人にとっての神様なのではないでしょうか?そして「頼る」という行為こそRELIGIONではないかと考えています。ですからRELIGIONに関係ない人はいません。人間はそもそもRELIGION的生き物だと思っています。

 日本人の生活の中にも、実はRELIGIONは満ち溢れているのにそれに気付いていないような気がしています。
なぜなのかちょっと考えて見ました。

 RELIGIONとは英語ですが、日本語ではこれを「宗教」と訳しています。日本は、四書五経がベースの儒教、そして仏教などのように知的に洗練された教えに影響を受けてきました。そして近世以降、西洋の文化や文明が日本に流入する中、キリスト教も日本に伝えられました。日本人は、日本の仏教と同じようなものであると理解したのではないかと思うのです。

 仏教、儒教は知的レベルの高い謂わば「哲学」です。知的に洗練されたこの世界を説明する教えです。キリスト教にも仏教と同じにおいを感じたのでしょう。だからキリスト教を表わすRELIGIONという言葉を哲学的ニュアンスを含む「宗教」と訳したのではないかと思っています。
 
 RELIGIONは元来、RELATIONという関係を意味する言葉と同義です。関係ですから哲学というより「絆」というニュアンスの言葉です。ですが、RELATIONを「宗教」と訳すほうが日本人にはしっくりきた。。この感覚が日本人の宗教センスを如実に表わしていると考えています。
 
 日本人は突如、西洋から来たキリスト教を宗教的に、すなわち、「哲学的」に理解しようとしました。しかし、キリスト教は、philosophyではなく、religionです。次第にキリスト教がわからなくなり、日本人にとってreligionは実に不可解で得体の知れないものになったのではないかと感じています。



もう私も、この文章を書いていてわけわからない状態です。。


そして、仏教も神道もキリスト教も一つの「宗教」という単語でひとくくりにしたことによってもうゴチャゴチャになってしまった。次第に意識の中から宗教が消え、年末年始に除夜の鐘や初詣といった形で、旧来の風習として一年に一回蘇るだけのものになったのではないでしょうか?

 しかし、世界を見渡すと、日本でいうところの「宗教」はもっと日常世界に「絆」として息づいています。例えば、ロシアのプーチン大統領は、自身もクリスチャンであると公言し、大統領就任直後、ロシア正教総主教の下に出向いたと言われています。この事実はよく考えれば革命的なことです。ロシアと言えば、1917年に共産主義を取り入れソビエトを建国しました。そしてreligionを否定し弾圧を開始しました。しかし決して根絶やしにすることが出来ず、逆に共産主義は自壊に追い込まれました。まさにプーチン大統領の行為は、共産主義がreligionに負けたことを表わす象徴的な行為ではないでしょうか。歴史を見れば、religionは弾圧を加えれば加えるほど逆に活性化する傾向すらあることがわかります。日本でもキリシタン弾圧を行いましたが、多くのキリシタンは天草四郎の乱に見られるように戦いだしました。江戸時代キリシタンであるだけで村八分になり人間として扱われなかったにも関わらず、地下で信仰を保ち続けた人が多くいたことは知られています。そして中国、現在共産主義政権の下、宗教活動には多くの規制があるにも関わらず、キリスト教徒やイスラム教徒が夥しく増えています。(中国でのキリスト教徒についてはこの記事でも書きました。)

 しかし全く逆の事実にも気づかされます。西暦4世紀にキリスト教はローマ帝国に公式に認められ、国教となりました。そしてキリスト教指導者達には絶大な権限が与えられるようになりました。しかし、絶大な権勢を誇ったローマ・カトリック教会も分裂を繰り返し、プロテスタント勢力の台頭を招き、もはや絶大な権勢は持ち得ません。

絆を断ち切りたいのなら、断ち切ろうとするのではなく、別の絆を提供すればいい。。

 プーチン大統領はこのことを痛いほど理解しているのは間違いないと思います。religionは弾圧するのではなく、手なずけたほうがいい。彼はローマ帝国の宗教政策を参考にしているのはないかなんて考えが及ぶ訳です。

 ちょうど昨日(2016年2月29日)、中国できらびやかな建造物の建設が規制されるニュースがメディアで流れました。メディアでは中国で建設されている建物の映像を映し、中国政府の綱紀粛正、腐敗撲滅対策の一環との論調が目立ちましたが、ただ建物の滑稽さを楽しんでいるかのようにも映りました。しかし、日本でも昨年から一部のメディアでは、取り上げらていますが、中国国内のキリスト教の十字架の撤去をしています。これについてはやはり特に海外が否定的な反応を示していますが、今回の件も、宗教弾圧的要素を薄める目的があったのではないかと感じる訳です。今回の建造物規制のニュースが日本のメディアでも大きく取り上げられているように、海外のメディアでも取り上げられることこそが、目的だったのではないでしょうか。海外からの宗教弾圧への批判をかわす意図を感じる訳です。しかし、日本のメディアにはこういう視点がない訳です。これは日本のreligion的センスがそうさせているのか、もしかしたら分かっていてもわかっていないふりをしているのかもしれませんが。

 とにかく、religionは世界に満ち溢れていてその視点は欠かせないと思いますし、とても面白い。これがブログを書くひとつの理由です。



そして、ちょっと日本の大学進学率とGDPの関係をグラフ化してみました。



単純にGDPと大学進学率を比べて何が言えるのかと批判を受けそうな気もしますが、この二つには相関関係があまりない可能性が高いということです。。高学歴化が経済活性化には結びついているとは決していえないのです。

何がいいたいのかといいますと、日本人はRELIGIONを哲学的という論理性を駆使したアプローチで理解しようとしてきました。そして経済活動についても、マルクス経済学、近代経済学という論理性を駆使した理解に偏っているのではないかと思います。そして経営の為にはMBAという、これまた学問的、論理的アプローチによって成長を目指してきました。RELIGIONも理屈では理解出来ない「絆」的要素が重要ですが、経済も、その善し悪しを判断する際に頻繁に使う「景気」という言葉が象徴しているように、気持、感情に左右される要素、中々目には見えない要素も重要です。これを論理性で片付けようというのには些か無理があるのではないでしょうか?

 経済とRELIGIONには結構相関関係があります。RELIGIONを否定した共産主義諸国は、経済的に息詰まりました。しかし、世界最大の経済大国アメリカは世界最大のRELIGION的な国家でもあります。ならば共産国家の中国が世界第2位の経済大国であるのはおかしいではないか?ということになりますが、上述のように、中国ではキリスト教徒、イスラム教徒などが増大してきています。


 勝海舟の氷川清話に「賢くなると商売ベタになる」といったニュアンスの文章が散見出来ますが、今、日本人は賢くなりすぎているように思います。だから経済もRELIGIONも理解出来ないのではないかと考えています。

 私自身、落ちこぼれです。受験が苦手で失敗の連続でした。キリスト教の教職者の方々も比較的エリートの方が多いような気がしますが、やはりどこか神学的な理解を重視する傾向を感じます。神学を否定するつもりはありませんし、パウロが超エリートであったようにエリートにはエリートの役割があります。そしてパウロは霊的な要素も重要視していました。霊的とはまさに神さまとの「絆」を表わす言葉です。パウロと同じ使徒であるペテロは漁師でした。キリスト教が全て論理で説明がつくのであれば、ペテロは必要なかったのではないでしょうか。パウロも語ったしペテロも語ったのです。

 例えば、自分の家族や友人のことを知っているのは、紛れもなくあなた自身のはずです。大学教授はいくら勉強が出来るからといってあなたの家族のことを説明出来るでしょうか?当事者でないと説明出来ません。ペテロが語ることが出来たのも同じことです。頭の良かったパウロも、ダマスコ(現在のシリアの首都ダマスカス)に向かう途中にイエス・キリストに劇的に出会わなかったらキリストのことを語ることは出来ませんでした。これがキリスト教は教えというよりも絆であることを示す証拠のひとつです。ですからわたしのようなものにも理解出来ますし、私のような落ちこぼれであるが故にもしかしたら気づくこともあるような気がしています。

 世界中に満ち溢れているRELIGIONをもっともっと見ていきたい。私自身がもっともっとRELIGIONを知りたいと思っていますが、ひとりだとどうしても独り善がりで偏ったものになってしまうでしょう。決して客観的で公平中立ではありません。主観的です。そして時には独善に陥ることもあるかも知れません。そんな時は出来ましたら、ご指摘頂けると幸甚です。


血の通ったブログにしたいので、私自身学んだこと、そして見解や分析は積極的に掲載致しますが、自分の考えを主張することが目的なのではなく、RELIGIONを知りRELIGIONを通して世界を知るきっかけを作っていきたいと考えております。

そして、そして、

「あなたが右に行くにも、あなたの耳はうしろから、『これか道だ。これに歩め』ということばを聞く。」(イザヤ書30章21節)

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイの福音書6章33節)

私は海洋散骨事業、そして通訳ガイドを営んでおります。毎日の生活はサラリーマンのように保証されておりません。しかし私は聖書を信じています。私の人生は上の御言葉の通り、神様がきめ細かく導かれ、必要なものも備えて頂き、充実した幸せな人生であることを確信しています。このブログではそんな私の歩みも綴らせて頂きたいと思います。宜しくお願い致します。




私の人生ほんとにどうなるんでしょうね~~。。乞うご期待!!