
ワークショップという言葉よく聞きませんか?
これ、日本語に訳すと
「体験型講座」「自主的に参加する研修」になるんですけど、
なんで敢えて、ワークショップを使うんでしょうか?
どうも「体験型講座」だとか、「研修」だと、おカタい感じに聞こえるらしいんですね。
ちょっとゆるい、リラックスできる、楽しい体験型講座に該当する言葉って日本語にないんですかね?
ちょっと、日本人として、嫌なんです。なんでもかんでも英語は。
でも、楽しい言葉って結構、外来語が多いんですよ。
パーティー、フェスタ、コンサート、んっ、遊園地は日本語やな。
でも、これも日に日にテーマパークに置き換わりつつある。喫茶店もカフェに。
明治の人たちは、文明開化によって多くの外来語が突然増えた時、それを一生懸命日本語に置きかえって行った。多分、遊園地も喫茶店もそうなんだろう。
日本人としての矜持というものだろうか。
それが、太平洋戦争でのあまりにもひどいボロ負けによって、矜持も失われたんだろう。
日本は神国だから負けるわけがないと信じて疑わなかったのに、あっさりと負けてしまった。
日本人としての誇り、日本の歴史や伝統に対する信頼が音を立てて崩れ去ったのだ。
もはや、日本語に置換するという作業への意欲が失われ、外来語をなし崩し的にそのまま受け入れ始めることになった。
「文化に優劣はない」と言われることもある。だが、これは綺麗ごとだと思う。
言霊という言葉がある。
言葉は命なのだ。
日本語の言葉を捨て、英語をそのまま受け入れるとは、無意識のうちに、アメリカ文化への敗北を認めていることから来ているのではないか。
日本文化の敗北なのだ。
実は文化には優劣がある。
これは、現代日本人の無意識の行動の中に証明されているのではないか。
文化は命であるともいう。そうなのであれば、文化が日常生活の中から滲み出されていなければならない。しかし、私たちが使う生きた言葉から日本語が徐々に失われて来ているのは、日本文化が徐々に消え去りつつあるのではないか。
いやいや、日本は古来、外国の文化を吸収しそれを日本に合うようにアレンジする能力がある。これこそ日本文化の特徴だ。と考える方もいると思う。
そう見えるかもしれない。でも、日本は決して適応しようとはしてこなかった。自分たちの都合のいいように解釈し、若しくは受け入れ可能なものだけ取り入れただけなのではないか。神仏習合などはそれは最たるものだと思う。
これは適応とは違う。
異質のものは頑なに受け入れてこようとしなかった日本文化。それが敗北したのだ。
太平洋戦争の敗北によって。
偏りのある日本文化の敗北なのだ。
日本文化は偏りがある。
だいたい、ワークショップの概念を表す言葉が日本語がないのだから。