悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(新約聖書:エペソ書6章11節12節)
ちょっと、過激なテーマに致しました。。
聖書は悪霊について、
主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、を悪(悪霊)だとしています。
ローマ・カトリック教会は、キリスト教2000年の歴史の中で、
事実上、政治権力を保持した時代がありました。ローマ帝国、神聖ローマ帝国
の時代に教皇が国家の頂点に君臨しました。
これは、事実上、宗教団体というよりも政治団体であったと言わざる負えません。
当時のヨーロッパでは、教皇は絶対的であり、教皇が帰依するキリスト教も絶対的な存在でした。
そこに住む住民は、有無を言わさずにキリスト教徒に改宗させられました。
これは、北朝鮮ともあまり変わりがありません。
国家には義務が伴います。残念ながら、古今東西を問わずです。
徴兵制があります。徴兵制がなくても、国民には納税の義務があります。
義務とは人間の自由意志に関わらず、絶対的に履行しなければならないこと。
この事実の前に現代市民は思考停止せざる負えません。
しかし、これは自由意志を持つ人間の権利(人権)に対する挑戦ではないかと思えてしまいます。
国家は義務によって成り立っています。人間の思いを無視する強制力というある意味「暴力」が国家には付与されています。
キリスト教の経典である聖書は、悪の特徴としてしばしば「暴力」を挙げています。
あなたの唇の言葉を守ります。暴力の道を避けて (詩編17編4節)
神に逆らう者よ、神に従う人の住みかを狙うな。その憩いの場で暴力を振るうな。 (箴言24章15節)
国家とは本質的には暴力というシステムを内包する装置です。国家とは暴力装置なのです。
しかし、人間社会は残念ながら、この暴力装置がなければ成り立ちません。
もし無税になったら、どうなるでしょうか。たちまちカオスに陥ってしまう。
やはり人間は不完全(罪人)である所以でしょう。
キリスト教徒も、そんな不完全な人間に変わりはありません。
だからローマ・カトリックのような失敗もありうる。
プロテスタントだって、同じです。同じような失敗に陥る危険性を孕んでいます。牧師の言うことが絶対化されたり。。ロシア正教もギリシャ正教だって同じです。