
成功・・・・・悩ましい言葉ですね。みんなこのためにあくせく苦労しています。
みんな成功出来れば苦労しません。成功とは一体何なのか?
自分の思い通りに行く、さらには、自分の思う以上の好結果が生まれる。
ことでしょうか。
基準は「自分」です。自分自身の考え方によって成功の形は人それぞれ変わるのだと思います。
まずは自分の好きなことから始めようとよく言われます。「好きこそものの上手なれ」
これはやはり大事だと思います。好きなことは自分の才能である可能性は高いと思います。
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6節7節)
と聖書にあります。早速祈ってみました。自分の願いを率直に祈ってみました。なぜなら神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。とあります。
これは、自分の願いがもし神の御心、御意思と同じであれば、平安が与えられ、もし違っていれば、
自分の思いを、神の御意思へと平安のうちに変えてくださる。と理解しているからです。
すると、次の聖書のみ言葉が浮かんできました。
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2:13)
自分の今の願いというのは、自分の感情です。思いです。
それが、その思いが、神の御意思と同じであれば、
きっと、志が与えられるという思いになりました。
志とは、「その思いによって何をして、それで自分を、家族を、そして社会をどうしていきたいのか。」でしょうか。
クリスチャンとして志を言ってみると、「神様に対して、そして人に対して何をしていくのか。どのような徳があるのか、利益になるのか」と言えると思います。
もし、自分の願いが御心なら、この志が「与えられる」はずなのだと思いました。
神は、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、、ということは神が私に「与えられる」はずなんです。
この「与えられる」がポイントなんです。決定的なポイントです。
自分で志を考えるのではない
神が教えてくださり、そして、それをなんと、
神が成し遂げてくださるんです。
だって、
あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。
なのですから。。。自分では何も無理して頑張る必要ないということです。
全部おぜん立てされます。
ここが、キリスト教の、キリスト「教」でなはない所以なんですね。「教え」ではない。
教えであれば、その教えに忠実に従うのは、自分になります。自分でやらなければなりません。
でも、キリスト教は教えではありません。力です。命です。キリストの力です。
教えにはそんな力はありません。
このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。(コロサイ1章29節)
使徒パウロはこう告白しています。キリストが働いてくださっていると。
「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」 (ガラテヤ2:20)
キリストを信じれば救われます。信じるとは、自分で生きるのを辞めて、代わりにキリストに生きて頂くこと。です。
不完全な自分で生きれば、それはもう大変ですが、完全なキリストが生きてくだされば、もうそれは幸せです。
これがキリスト教の最大の醍醐味ですね。