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よくキリスト教福音派と言われる人は中絶やLGBTを認めないと言われます。


一応福音派だと思ってる私も、認められないと思ってます。


さて、話しはここからです。アメリカやブラジルなど福音派が社会である程度の割合を占めるところでは、この問題が政治的に争点化されます。

ここで、改めて、なぜ私は中絶やLGBTに反対なのか考えました。

やはり聖書にその根拠を私なりに見いだしていることに気付きます。聖書によって中絶はやはり殺人である。LGBTは堕落の結果ではないかと理解しています。

私は聖書の作者であるキリストを知っていることでこのような理解にたどり着いているわけです。

ですから、キリストを知らないクリスチャンではない方には、この考え方に違和感を感じるのはごく自然なことです。当然なことでしょう。決して責められないと思います。

だから政治的に争点化することはおかしいのではないでしょうか??



もし、国民全員が福音派なのであればまだしも、争点化して政治問題化させるのは、クリスチャンでない方にもこの価値観を押し付けることであって意味がないと思います。


福音派の中にも中絶をしたりLGBTの方がおられると思いますが、これらの方には叱責すべきなのでしょうか。これについても十把一絡げに叱責しろとかするなどとは安直に判断できない。キリストとな絆の度合いもそれぞれ。
ケースバイケースでしょう。


私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。(ローマ7章9節) 

<中絶やLGBTに反対することによって神の栄光、義を表せるのか?>

福音派の中には、積極的に中絶やLGBTに反対を唱えることは、神の義や栄光を表し、人々への宣教につながるのではないかと 考えている方々もおられると思います。


このローマ人への手紙7章9節で明らかにされているように、律法だけをクローズアップすると、結局のところそこには絶望だけが残ることになると思います。とても聖書が求める律法を実行出来ない自分に気づくからです。

そして、この絶望感に浸ることによって人々はキリストにすがることになる。。

だいたいこのように考えるのだと思います。


しかし、イエス・キリストは人々に対してそのようなアプローチはしなかったと思います。裁くメッセージではなく赦しのメッセージを訴えかけられました。


ですから、私は、中絶やLGBTへ反対ではあるものの、それを振りかざし、政治闘争の道具として扱うことには疑問を抱きます。



日本では、そもそもキリスト教のバックグランドが薄いため、中絶やLGBTに対して比較的寛容なのではないかと思います。これが問題になること自体に疑問を感じる方が多いのではないでしょうか?当然だと思います。


しかし、欧米でいつも問題となるこの問題の背景を理解しておく必要はあると思います。



今後もこの問題は取り上げていきたいと思います。