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クリスチャンって〇〇してはいけない。


〇〇しなくてはいけない。


礼拝に参加しなくてはいけない。



献金しなくてはいけない。。



婚前交渉してはいけない。。。


悪口を言ってはいけない。。




なんて、結構うるさいんですよ。



それで、結構これが出来なかったりするわけですね。



それで、できなくて自分を責め始めるんです。



これ、クリスチャンだったら、誰でも経験あるのではないでしょうか?



自分を責めて、


本当に救われているんだろうか?とか思い始める。



自分なんかダメ!!!!


という感じで、次第に教会になんか、自分のようなものが行くところではない。


そして、


キリストなんてほんとにいるんだろうか?


そのうち、キリストを信じられなくなり、THE END。




こういうパターン。




って、これはまさに、私のことです。



自分で言うのはおかしいんですが、



自分ってまじめなんですよ。



聖書って、一見確かに、



決まりのようなことばかり書いてある気がして、



真面目だから、一生懸命それを守ろうとする。



でも、必ずできない。


まじで。出来ない。


当然自分を裁き始める。



こんなことの繰り返しでした。



キリストを信じても、何にも喜びなんてありませんでした。




私も、よーーーーーーーやく、聖書を何回か通読してみて、



ちょっと、考え方が変わってきました。



そのあたりのことを今日は書きたいと思います。




一つ目は、、


まず、主の祈りってのがあります。



クリスチャンなら必ず知ってるはずの基本中の基本の祈りで、



キリストが、キリストを信じるクリスチャンに模範的な祈り方として示されたものです。



主の祈りの中に、


私たちの負い目(罪)をお赦しください。

とあります。


そして、このフレーズの直前には、


私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。


ということは、この祈りは毎日祈るように薦められているものであることがわかりますね。




毎日、「罪をお赦しください。」と祈りなさい。ってことです。



すなわち、ようするに、



もう毎日のように罪を犯すことを、神様、キリストは完全にお見通しということ。



罪を犯して、当たり前。ってことです。



別に罪を犯すことは構わない。でも謝ってねと。



謝れば赦して頂けるんですよね。



そして二つ目。


ダビデ王。



イスラエルを空前の繁栄へと導き、世界史の教科書にも出てくる実在の人物です。



今でも、クリスチャンの間では偉大な信仰者として尊敬されている人物でもありますし、欧米ではデビッドとか、
ダビとか、ダビデ由来の名前が今でも多いのはその証です。



彼も、罪を犯しました。



人の奥さんを横取りして、子供を孕ませた。しかもその夫を殺した。。


現代の常識からして、本当に悪いことだと感じますが、



まあ、絶大な権力者であったダビデはなんでも許される立場でしたから、これは別に咎められるほどのことではなかった。権力者にとっては常識の範疇でしたが。



これでも、ダビデは偉大な信仰者なんですよね。


なぜ、こんなのでも、偉大なんでしょうか?



ダビデは、このことを、あとから指摘され、それを素直に受け入れたんですね。



そして、神様の前に本当に謝った。




ここなんです。



何か、偉大な業績を挙げただけでは、ここまで尊敬されることはありませんでした。



そして、ダビデは、赦され、より神様を慕いながら歩んでいきました。益々神様に信頼して歩んでいった。




ここなんです。決して自分を責め、自分をさばき、神様から離れることはなかったんです。




実は、罪を犯さないよりも、ここが最も大事なところだと思うんです。



聖書には悪い例もたくさん出てきます。



イスラエル人たちは、決してダビデ王のようではありませんでした。



神様を忘れ、離れてしまいました。



そして、結果として、戦争に巻き込まれたり、戦争にも敗北したり、結局自分で自分の首を絞めることになりました。





罪を犯すことはやむ負えません。これが人間の現実の姿です。



そして、三つ目。。。




だから、キリストは十字架に架かり人間のすべての罪、過去の罪から未来の罪に至るすべての罪の身代わりとなって死んでくださいました。



だから、罪を犯したなと思ったら、このキリストを思い出したいんです。このキリストの偉大すぎるクレイジー過ぎる業績をいやでも実感できるんです。



それでも、私は、のど元過ぎれば熱さ忘れるってやつで、、




またしばらくすると罪を犯す。



そして、キリストを思い出す。



一生この繰り返しかもしれません。



でも、この繰り返すなかで、ゆっくりゆっくり、成長していきます。




ダビデも、この繰り返しでした。しかし、



晩年になって、次のようなエピソードが聖書に書かれています。

 ダビデ王は年がすすんで老い、夜着を着せても暖まらなかったので、 
2 その家来たちは彼に言った、「王わが主のために、ひとりの若いおとめを捜し求めて王にはべらせ、王の付添いとし、あなたのふところに寝て、王わが主を暖めさせましょう」。 
3 そして彼らはあまねくイスラエルの領土に美しいおとめを捜し求めて、シュナミびとアビシャグを得、王のもとに連れてきた。 
4 おとめは非常に美しく、王の付添いとなって王に仕えたが、王は彼女を知ることがなかった。 


ただ、性欲がなくなっただけだったら、敢えてこんなこと書かないと思うんですよね。


実際、老人でも性欲はあるようですし。。。



ダビデは何度も何度も、神の赦しを体験し、人間的に成長していき、罪を犯さなくなっていったんですね。




人間が、本当に更生していける唯一の道はこれしかないと思います。。



赦しです。一回や二回ではありません。赦され続けることです。


そして、キリストを信じ慕い続けることです。決して離れることのない人生しかありません。


こういうところが、聖書って好きなんですよね。。



こんなキリストには降伏するしかありません。


、またあの曲が聞きたくなりました。。



今日は、この曲で終わりたいと思います。。。。。



Lembro quando te encontrei
あなた(キリスト)と会ったときのことを思い出します。

Tudo novo você fez
すべてが新しくなりました。
Os abraços que senti
あなたの御腕は
Me fizeram prosseguir
私を育みました。
Várias vezes eu caí
何度も失敗したけど、、
E você me levantou
あなたは私を支え、
Eu achava estar bem
やすらぎを覚えました。
Mas me rendo
しかし、、私は降伏します。

Eu me rendo
私は降伏します。
Eu me rendo
私は降伏します。
Eu me rendo a ti
私は降伏します。あなたに。
Eu me rendo
私は降伏します。
Eu me rendo
私は降伏します。
Eu me rendo a ti
私は降伏します。あなたに。
Toca em mim de novo
もう一度来てください。
Enche-me de novo
もう一度満たして下さい。
Eu não me vejo
あなたが見えません。
Sem tua presença
あなたはどこですか?
Toca em mim de novo
もう一度来てください。
Enche-me de novo
もう一度満たして下さい。
Eu não me vejo
あなたが見えません。
Sem tua presença
あなたはどこですか?