キリストは、神であり、人であるというのが、
伝統的なキリスト理解



100%神であり100%人間である。。



この時点で科学の理解を超越してしまう。


私自身、これがどういうことなのか理解できていない。


ただ、

キリストは神でありながらその神の全知全能性を制限されていたと思う。




マタイの福音書22章で、キリストを疎ましいと思っていたパリサイ人たちから、
税金を納めることは律法にかなっているかどうかを質問された。
そしてキリストは、彼らの悪意を見抜かれた。とある。




なぜキリストは見抜くことができたのであろうか?




それは、キリストは神だからだと思っていた。全知全能なるお方であれば、
何でもできるし、何でもわかる。


でも何か解せない思いに駆られる。




人間の姿をとって人間と同じ三次元の世界、時間の制約を受ける世界で
人間と同じように生活をしておられた。人間と同じになることによって
人間の弱さすら自らの中に受け入れられ人間と同じように感じ、苦しみ
そして悩まれたはずなのだ。


だからこそ、パリサイ人には、キリストは人間としか思えなかった。
そのキリストが時々偉そうなことを言ったり、凄いことをするので、
キリストを疎ましいと思ったのだと思う。キリストは人間だったのだ。
神のような全知全能性を制限されていた。だからイエスをキリスト、
すなわち「救い主」として認識できなかったのだと思う。


なぜ、キリストは悪意を見抜くことができたのあろうか?
私は教えを乞うために祈った。


キリストは全知全能性を制限しておられ、人間と同じ感覚で生活を
しておられた。


ただ、人間とは明らかに違う点が一つある。それは処女から生まれた
ということだ。





だから、罪の性質を先祖から受け継いでおられない。
罪のない人間なのだ。



だから、全知全能なる神と自由に交流することができた。
祈ることができた。神がキリストと共におられたのだ。


だから、神がキリストに働かれ、キリストに悟りを、洞察を
与えられたのだと思わされた。



神に罪を認められないことは如何に素晴らしいことか。






そして、神は、





このイエスをキリスト、すなわち、救い主として受け入れ
信じる者に罪を認めない。




そしてイエスと同じように、


神と共に歩むことが許されている。



だから、イエスを信じるクリスチャンにも知恵が与えられる。