キリスト教は、「イエス・キリストを信じれば救われる。」の一言で完結すると言えます。
シンプルイズベストとはキリスト教のためにあるのではないでしょうか。と思わず書きたくなります。。書いてしまいましたけどね!
キリスト教では修行は必要ありません。だからちょっと不安になるんですよね。信じてるつもりなんやけど、ほんま救われてるんか?と感じてしまうんですね。
修行を乗り越えて、悟りに達するほうが、なんか逆に達成感からでしょうか、救われてる感を感じられるかもしれません。
聖書には、その不安にも答えが書かれています。
そしてその後に、ちょっと不思議なことが書かれています。
「たとえ自分の心を責めたとしても安らかでいられます。」
18節には、続いて「そうすることによって・・あなたがたは真理に属していることがわかります」となっています。行いと真実をもって愛することによって救われているかどうかわかる。と言っています。
それを受けるかのように、「たとえ責めたとしても・・」と展開していることになりますね。
行いと真実をもって愛するとは、ちょっとハードルが高いんですね。なかなか出来ることではありません!よね。
「たとえ責めたとしても、」は「たとえ行いと真実をもって愛せなくても、」の意味合いではないでしょうか。
何で、あえて「たとえ責めたとしても、」と書いてあるのでしょうか?
「たとえ行いと真実をもって愛せなくても、」のほうが分かりやすいと思うんですよ!どうですか?
この部分もう少し見てみます。
「たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存知だからです。」となっています。
神様は、イエス様は、信じた後にも不真実な行いをしてしまうあなたであることを知っているんですね。
「たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。」は、「わたし(神様)はあなたを責めないよ」とおっしゃっているんです。。
過去の行いも未来の行いも既に赦されているんだよ。と言うことなんです。
救われたら良い行いが出来なければ救われていない。と言うことは決してないんですね。
もう凄い憐れみですよね!🌠言葉がありません。信じていれば、それだけで救われているんです。
もう自分の一生涯の罪が赦されていると思うと安らかになりませんか?☺